パリ講和会議を包む雰囲気は険悪さを増し、肝心要の講和条件はいくら日を重ねれど模糊としたまま形にならず、痺れを切らした人民が生活難も加わって革命運動を起こしたとの報せまで舞い込んでくる始末となった。
ここに到りて、欧州人のウィルソンに対する憤懣というのも頂点に達する。
――野郎、いまにみてやがれ。
と、夜の酒場で酔っ払いが歯ぎしりしながら
現にこのころ、永井柳太郎がパリに於けるウィルソンの官邸を訪ねているが、外周をフランス警察により見張らせているのはむろんのこと、門を潜ると玄関から応接室の入口まで米国兵がずらりと並び、しかも携えている小銃ときたらいちいち着剣済みであり、そのあまりの厳戒態勢ぶりを見て、
――なんという物々しさだ。
と驚愕している。
オルランドの退席騒ぎが起きたのはまさにこの、圧縮熱が限界まで高まった情勢――その真っ只中であったのだ。
当然、欧州全土から歓呼の声が上がらずにはいられない。
いざオルランドがパリを去ってローマに帰らんとするその日には、この「英雄」の勇姿を一目見んと停車場に人々が押し寄せ、群衆を作り、惜しみない拍手を送るなど、ほとんど収拾すべからざる騒ぎを呈した。
壮烈、推して知るべしだろう。
イギリス、フランス、ベルギー等の各新聞紙はこの事件を梃子に猛烈な勢いでウィルソンを攻撃。その結果、廻り廻って思いもかけず得をしたのが大日本帝国というのだから面白い。
日本は日本でかねてより、山東問題をめぐってアメリカと散々揉めていた。その激しさたるや4月18日の会議の席で、日本側から
「条約に調印することが不可能になるかもしれない」
との発言が飛び出した一事を以ってしてもわかる。
山東権益をいったん米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、然る後に処理を決定しようとの提案を受けてのことだった。
普通なら、こんな台詞は通じない。
逆に足元を見透かされ、
――おお、ならばもはや用はない、荷物をまとめてさっさと帰れ。
と切り返されれば、窮するのはむしろ日本であろう。そんな真似が出来ようはずもないのである。
ところが豈図らんや、それからわずか6日後の24日にイタリアが本当にやってしまった。
事態は急転直下した。
本来負け惜しみに過ぎなかった筈の日本の啖呵が、急にまざまざとした現実感を伴って人々の目に映りはじめた。ヨーロッパの新聞各紙はオルランド離脱の興奮さめやらぬまま筆を動かし、
「もしこの期に及んでウィルソンがその横暴なる態度を改めなくば、既にイタリアがパリを引き揚げた例に倣って、日本もまた決然塵を払ってパリから去るに違いない」
と書き立てた。
それでもウィルソンは動じなかった。
良くも悪くも、彼は信念の人だったのである。
しかしながら、英国外相アーサー・バルフォアの心は大いに揺れた。
もし本当に日本が離脱すれば、非単独講和条約に調印した英・仏・伊・日・露の中から三ヵ国が脱けてしまうことになる。そうなれば残った英仏両国のみで、果たして有効な講和条約が成るかどうか。
そこを危惧したバルフォアがウィルソンを説きに説き、やっとの思いで日本に対する譲歩を引き出すことに成功したというわけである。
日本代表にしてみれば、まさに棚から牡丹餅の気分であったに違いない。
いや、政治力学の作用というのは玄妙なものだ。
ちなみにイタリアに引き揚げたオルランドであるが、彼はその後、二週間もせぬ内に再びパリに戻って来て、しぶしぶ会議の席に復帰している。
このあたり、イタリアらしいというか、なんというか。
つくづく以って、欧州情勢、複雑怪奇。
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