穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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神戸挙一伝 ―二束三文―

 

【▼▼前回の神戸挙一伝▼▼】

 

 

 

 正直に心情を吐露すると、私はこの神戸一郎という男が、だんだん気の毒になってきた。


 ここまで散々彼の愚昧ぶりを書き立ててきたが、実はこの段階に及んでも、彼が犯した失態の総量、その半分にやっと届くかどうかである。一郎の行く手には更なる挫折と転落とが待ち受けており、彼に対する同情が芽生えつつある私にとって、それを描写するのはなんともはや気ぶせりだ。


 が、それでも書く、やはり書く。


 このまま風化するに任せ、誰の記憶からも消え去るよりかは、悪名だろうと名を遺せたほうが、まだ男子の本懐に近かろう。


 悪――果たして神戸一郎は悪人だろうか?


 彼はただ世間知らずなだけの男で、むしろ世上に蔓延る「悪」なるものには極端なほど免疫がなかったように思われる。

 ある種の純粋培養に、近いといっていいのではないか。
 が、その世間智のなさが彼の家族を塗炭の苦しみに叩き込んだ元凶なのは紛れもなく、だとすれば行き過ぎた純粋さというのは、それ自体が立派な悪徳として成立するのかもしれない。

 

 

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 金の切れ目が縁の切れ目。訪客のすっかり途絶えた屋敷の奥に篭居して、


 ――あの恩知らずどもめらが。


 爪を噛み、何度繰り返し呟いたところで無意味である。万事後の祭りでどうにもならない。ばら撒いた金は戻ってこないし、事態はさっぱり好転しない。


 何はともあれ、喰わねばならぬ。一週間も食を絶てば人は死ぬのだ。死なずとも、目は回り手足は震え、脳が湯豆腐にでもなったようにあたまの中が呆として、思考は形を成さなくなること請け負いである。
 言ってしまえば人間としてのていが崩れる。崩れて、なにごとの役にも立たなくなる。
 そうなってから慌てたところで遅いのだ。その程度の思慮は、神戸一郎にもついた。


 が、そこまでである。金穀を得るために何かやらねばならないことは分かっているが、具体的に何をすればいいのか分からない。


 一郎は悩み、いたずらに時を空費して、焦りを募らせ漸くたどり着いたのが、家財道具を売り払うというものだった。


 多くの没落士族が辿った道と、軌を一にするといっていい。


 ただ、決して間違った判断ではない。折しも明治、その初め。日本が国を挙げて世界に門戸を開いたばかりのころである。
 西洋列強――欧州人の心裡には、この極東の島国に、持ち前の浪漫と神秘的な憧れとを仮託したがる傾向が未だ根強く残されており、ために日本独自の品々――浮世絵や掛け軸、雛人形に紋付き袴、そしてもちろん日本刀など――が持て囃されて、盛んに売買されていた。


 神戸の家は代々続く由緒正しいお家柄。調度品のひとつひとつにまで永い歴史が滲みている。まさにその「持て囃されて」いる品々が、わんさと転がっているではないか。
 よって、開港地の商人にでも渡りをつけて、うまく話を纏められれば、少なくとも挙一が成人するまでのあいだ家計を保てるだけの金額は、十二分に得られたはずだ。


 地理的にも決して困難な作業ではない。むしろ恵まれているといっていい。

 うらさびれた一漁村に過ぎなかった横浜が、既に日本でも有数の貿易港として成長し、しかもそれが、わずか100㎞弱の近くにあるのだ。

 殷賑を極めたそのにぎわいは山々に木霊して東桂村の上空にも行き届いていたはずであり、もし神経を張り詰め耳を澄ましていたならば、そこにかぐわしきぜにの香りを嗅ぐことも、また可能であったろう。


 ところがここで一郎は、またしても一郎らしさ・・・・・を発揮した。彼は何らの思慮もまじえず、そう、信じ難いほど無造作に、宝の山ともなるはずだった家重代の品々を、地元の質屋に二束三文といっていい値で売っぱらってしまったのである。

 

 

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