穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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更紗兎とチベタン・マスティフ ―投機対象の動物たち―

 

 

 

 

 明治初頭の日本に於いて、天竺鼠ことモルモットが錦鯉よろしく愛玩され、異常な値上がりを見せたことは、上記の記事にて以前述べた通りである。


 が、同時期に異常な値上がりを見せた生物は、ひとりモルモットのみではなかった。


 も同様だったのである。やはり毛色によって価格に天と地ほどの差が生じ、『更紗』と呼ばれる毛並みのものが格別珍重されたという。
『江戸は過ぎる』篠田鑛造氏の談話の中に、その時の情景が描かれているので紹介したい。

 


 藍の外には兎といふものが大流行で、やれ三百両の子が生まれたの、千両の子が出来たのと云って、軒並みに兎を飼はない家はありませんでした。(『江戸は過ぎる』332頁)

 


 文中の「両」は、そのまま「円」に変換してくれてかまわない。
 明治初頭の百円を現代の貨幣価値に換算すると、だいたい二百万円に相当するというから、六百万や二千万で取り引きされる兎が存在したというわけだ。正に暴騰、バブルである。

 

 

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 兎の儲け話で花を咲かし、兎を飼はないものは、冥利に尽きる様に言囃いひはやし、外国から来た更紗の子が生まれたら何百両からする、運次第ですと唆かされ、赤坂目附下にあった鳥屋から更紗の牝を百両で買入れて、それを鳥屋で更紗の雄とかけて貰ふのです、其カケ・・賃が一回三両、五両といふのですが鳥屋はこれだけでも大儲けでしたらう。(同上、333頁)

 


 このあたりの下りから、私は仮想通貨熱最高潮期を連想せずにはいられない。


「兎を飼はないものは冥利に尽きる、運次第で一攫千金」。
「仮想通貨は貨幣の民主化、馬車からクルマへの転換に等しい革命事業」。


 流行の火付け役たちが口にする文句はいついつだとて変わらない。流れに乗っかろうとしない外野連を因循姑息な馬鹿扱いし、明日にでも新時代がやって来るようなことを言う。
 だが、時代の門扉は決まって重く、夥しい流血なしに開いたりはせぬものだ。

 


 カケて貰ふのも素人は自分で行く訳でなく、大概、下女に持たせてやるのですから、どんな雄をかけ・・るのか分かったものでなし、ですから、テンデ更紗なんか生まれたことがないとの事、皆、生まれた子は赤かったり黒かったりでした。それが御法度になったので、家産を傾けて首を縊った人もあり、夜逃げした人もありました。(同上)

 


 連日方々の待合茶屋「兎會」の集会が開かれ、毛色や耳の形を品評し、高値を付け合い、ついには番付表まで刷り出しはじめる。
 そんな空前の兎ブームを一挙に終熄させたのは、明治六年十二月東京府が下した法令だった。


 飼育する兎一羽に対し、一円の税金をかけたのである。


 これを受け、兎の価格はナイアガラよろしく大暴落。誰も買い手がいなくなり、業者としても飼料がかさんで仕方ないため、そこらの河原や野の末に勝手に捨てる事例が頻発。
 かつては何百、何千円の値札が付いた「商品」どもが拾い手もなくウヨウヨし、時には犬に咬み殺されて、栄枯盛衰の生きた見本を人々に示した。


 動物が投機対象にされた場合、付き物の惨状といっていい。


 近年ではチベタン・マスティフが、その好例であったろう。


 典型的でさえある。

 

 

WangdurivoiraTM

 (Wikipediaより、チベタン・マスティフ)

 


『動物談叢』黒川園長によれば、長毛かつ非常に獰猛な気質を有するこの犬を、その原産地たるチベットの嘗ての権力者たちはヤクの尾毛で作った縄で繋いで、専ら番犬役に起用していたそうである。


 チンギス・ハーンの遠征軍にも加わり、勇猛果敢な騎馬民族すら目を見張らずにはいられない、めざましき働きぶりを発揮した、そんなチベタン・マスティフが。


 近年中国都市部で人気を博し、二億、三億、四億の値で取り引きされて、屡々世上を騒然とさせた。


 聞くだに景気のいい話であろう。
「世界一高価な犬」の呼び名を恣にしたのも当然である。


 ところが、ある時分をきっかけに価値は急落。現在では数万円程度に値下がりし、それでも在庫が捌ききれず、窮した業者はこの嘗ての高級品を、食肉用の販路にさえも流していると一説にいう。

 


 あらゆるものが投機の対象となる。そして一旦投機熱が高まると、本来の価値を遠く離れて天井知らずに値が吊り上がる。

 


 冒頭の記事にて記したこの一節を、もう一度繰り返しておくべきだろう。

 

 

バブル :日本迷走の原点 (新潮文庫)

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古老の教え、感傷の盆

 

 新橋―横浜間に鉄路が敷かれ、そこを汽車が往来するようになり、その運賃が二十銭だったころの話である。


 遊郭の格子先に腰を下ろして煙草をふかし、「東京」と改称されてまだ間もないこの大都市の通りを行き交う人波を、何の気なしに眺めている青年がいた。


 彼の姓を、野村という。


 後の衆議院議員平沼専蔵が野毛山に邸宅を構える際に腕をふるった人物で、簡潔に言えば江戸の職人の一人であった。
『江戸は過ぎる』が刊行された昭和四年の時分には、どうも棟領格までのし上がっていたらしく、「野村棟領」の名で漫談を寄稿してくれている。

 

 

Hiranuma Senzo

 (Wikipediaより、平沼専蔵)

 


 ――さて、その未来の棟梁、野村某の無防備な背を。
 何の前触れもなしに、いきなり蹴飛ばした者がいた。


(野郎。――)


 たたらを踏みつつも辛うじて転倒だけは回避して、猛然と下手人を振り返ればなんとこれが中国人。細い眼を更に細くして、中国語でしきりにまくし立てている。
 が、怒りで血が逆上のぼせきっている野村の耳は、とうに役割を放棄している。ものも言わずに中国人の背後へ廻ると、髪の毛を引っ張ってひるんだところをぶん殴り、情け容赦なく追撃をかけ、拳の雨を降らしていった。


 そのうち相手は泣き出して、両手を合わせ拝むような態度に出たが、野村はどうにも不愉快だった。


 というのも、中国人はひとり街を歩いていたのではない。
 同人種の連れがいた。
 それも何人も。


 数で勝るのは圧倒的に敵方であり、この連れどもが加勢すれば、野村などあっという間に血塗れの肉袋にされたろう。
 それを端から承知の上で、自分が血塗れになる前にいったい何人を血塗れにしてやれるか――相打ち上等の覚悟を決めて、野村は拳を振り上げたのだ。


 ところが案に相違して、連れの中国人どもは一向加勢に来ようとしない。
 仲間が殴りつけられるのを、遠巻きにただ眺めているだけである。
 殴られている奴すらも、野村に許しを請うばかりで、


 ――おい、こいつをなんとかしてくれぇ。


 と救援を求める気配がさらさらないのだ。


(なんだこいつら、薄っ気味悪い。――)


 喧嘩に勝ちはしたものの、胸に汚水を流し込まれたような心地がして、野村はひどく不快であった。
 以降、野村は幾度となく中国人と拳を交えることになる。

 

 

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 といっても、この時ぶん殴った相手が復讐を画策したとか、そんな因縁では全然なく、単にこの時期、日本に流れ込んで来た中国人の態度が非常に悪く、そこらじゅうで狼藉を働いていたゆえの話だ。


 日本人女性を暗がりに引きずり込もうとしたり、土足で店に上がりこんだりする姿を、日常的に見たという。


 日本人を見下すこと甚だしいこの連中を殴り飛ばしている内に、野村は徐々に彼らの生態を理解した。

 


 喧嘩をして、日本人が勝とうものなら、その日本人には決して手を出さない、又強い日本人に自分達仲間が目の前でいくら撲ぐられて居ても、決して助けない。だが、一度日本人が負けやうものなら、皆して大勢寄ってたかっていじめる。(『江戸は過ぎる』260頁)

 


 拳で学んだ真理であった。

 


 ――ところで。

 


 と、ここで話頭を転換させたい。
 一連の記述に目を通すうち、ふと古い記憶の疼きを感じた。


 ――中国人に気をつけろ。


 近所に住んでいた、とある老爺の口癖である。


 下膨れの顔付きに、日焼けして赤銅色に染まった皮膚。そのうえ思い切って目玉が丸く、ダルマとしての特徴を、完備していたといっていい。
 だから幼い私などは、内心密かに彼のことを、


 ――ダルマの爺さん。


 と渾名して喜んでいた。

 

 

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 私が山梨の農村出身であることは、以前どこかで書き記した通りである。


 鄙びた地方の常として、少子高齢化が上げられる。私の故郷も御多分に漏れることはなく、その傾向が相当以上に強かった。


 老人ばかりが多く、子供の姿は稀少。そのことと、私が高齢者の方々から妙に可愛がられたことは、きっと無関係ではないだろう。


 同年代の子供たちと遊ぶ代りに彼らの家に招かれて、とうに火の絶えた土間の竈や、年季の入った足踏みミシンを見せてもらったりしたものだ。

 

 

Hakogike house10

Wikipediaより、土間)

 


 さて、私が紅顔初々しい少年であったのは、もう二十年以上も前である。


 そのころ既に「老人」と呼ばれていた方々は、むろんのこと経験している。――「日本」が再び五つの島に押し戻された、前古未曾有のあの戦争を。
 七十四年前の今日この日に終止した、大東亜戦争の実景を。


 ダルマもまた、そうした時代の生き証人の一人であった。徴兵され、中国戦線へ赴き、そこで地獄がどんなところか厭というほど味わわされた。


 流石にその時の経験を克明に語り聞かせはしなかったものの、代わりに次のようなことを幾度となく私に言い聞かせてくれたものだ。


「中国人は偉くなる。これからは中国の時代になる。中国人に気をつけろ」


 幼いながらも、私はこの言葉に引っかかりを覚えずにはいられなかった。


 ――どうして「気をつけろ」なのだろう。


 中国が将来そんなにも偉くなるというのなら、仲良くしておけ――友好関係の構築を奨めるのが普通の感性ではなかろうか。
 少なくとも、学校の先生方ならそう言うはずだ。宇宙船地球号だの「人類皆兄弟」だの何だのと、その種の空疎な文句を馬鹿の一つ覚えみたく繰り返し、生徒そっちのけで悦に入る、あのコスモポリタン気取りどもなら。


 ところが戦時中さんざん中国人と接したというダルマの口から聞かされるのは、友好どころか警戒心を煽る言葉。


 齟齬は疑念を生み、疑念のぶんだけ興味が募った。


 三つ子の魂百までも。私が歴史、特に近現代史に対して並々ならぬ熱視線を注ぐようになったのは、間違いなくこの幼少期あってのことだ。


 我が人生に影響するところ大である、そんなダルマも、私が高校生の時分にぽっくりこの世を去ってしまった。


 もっと話を聞いておけばよかったと、今更ながらに思う。
 あるいは、盆という季節がそうさせるのか。

 

 

 

 

 


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「ギブミーチョコレート」の系譜

 

 維新史で江戸がクローズアップされるのは、たいてい彰義隊騒動以後であり、それまでこの百万大都市は風雲をよそに眠りこけていたかのような観がある。


 が、事実は決してそうではない。


 時勢の影響は、しっかりと随所に於いてあらわれていた。


 徳川慶喜が江戸を離れて京に入った頃だというから、ちょうど文久二年(1862年あたりだろうか。『江戸は過ぎる』語り部の一人、小菅孝次郎氏はこの時期に、二度にわたって外国人を目撃している。

 


 一度は外人が馬に乗って、後先に別当がゐて、それが大通りから広小路を抜けて浅草の方に曲って、あれから吉原にかかります。その時に途中で見てゐましたが、浅草でその外国人が、鳩に豆を買ってるのに十杯ばかり買って二分金を一つおいて行きました。(『江戸は過ぎる』66頁)

 


 二分金とは長方形短冊形をした江戸時代の金貨の一種で、一枚がおおよそ一両の半分の価値を持つ。
 鳩豆十杯の支払いで二分金というのは、おそらく破格の支払いだったのだろう。現代式に当て嵌めるなら、「釣りはとっとけ」と云うヤツだ。

  

 

Tomebun-2buban

Wikipediaより、二分金)

 


 それから蔵前の通りで、乞食が飛び出して来て、旦那さん旦那さんといって拝むとポケットから天宝銭を二三枚出してくれて行きました。一体に外人は下の方のものを手馴付けたのでそれで下の者は外人に限るといふ風になりました。(同上)

 


 どことなく敗戦後――1945年8月15日以降、占領下に置かれた東京にて、ジープの上からチョコレートやらチューインガムやらを投げ与えた、あの米兵たちを彷彿とさせる情景である。


 弱者への施しの伝統性は、あるいはキリスト教ゆえにだろうか。帝政ロシアに於いてもこの傾向は甚だ強く、当時のモスクワではレストランの中へでも平気で物乞いが出入りし、しかもそれを異とする客は誰一人としていなかったと聞き及ぶ。


 もっとも共産革命以降、その種の慈悲は「惰民を生む」と批判され、地上から根絶されてしまったわけだが。

 


 まあ、それはいい。
 話を、江戸に戻そう。

 


 考えてみれば開港地として異例の発展を遂げつつある横浜がすぐ近くに控えているのだ。江戸に外国人が流入してくるのも当然だろう。

 

 

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 さてそうなると、自然の勢いとしてもう一つの種族も引き寄せられて来ざるを得ない。外国人を禽獣視して、隙あらば日本刀に血を吸わせてやりたがっている、攘夷浪士と通称される連中が、だ。
 孝次郎氏は、次のような事件をも報告している。

 


 外国人と取引をしてゐる羅紗屋に、一人の武士が来て何か預けものをして行ったが、取りに来ないので、開けてみたらそこの家の番頭の首だったといふやうなこともありました。(同上、67頁)

 


 脅迫であろう。
 包みを開けた店主は、腰を抜かすほど驚いたに違いない。
 これ以外にも、やはり三井の呉服屋が、外国人と取引をしていたという廉で火を付けられて、全焼するという騒ぎが起きている。


 しかもこの火が飛び火して、両替町、鞘町、魚河岸まで延焼する事態に発展したというのだから、大火といって差支えはない。


 ところが、やはり三井は天下の三井だ。この放火に気落ちして引っ込み思案になるどころか、逆に大きく張り出して、被害を被った住民全部に、裏店うらだななら五両、表店おもてだななら十両の見舞金を出すとぶちあげたからなんともはや痛快だ。


 豪気、ここに極まれり。江戸っ子たちの間で三井の人気はとみに上がり、以下のような落首が出るまで至ったという。

 

 

駿河町までの裾野で大がかり
裏が五両で、表十両

 


 瀬戸物町あたりに住んでいた学者先生の作ではないか、と孝次郎氏は洞察している。


 京都で血の雨が降っていた頃、江戸も決して静謐なだけではなかったわけだ。

 

 

一日江戸人 (新潮文庫)

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当たり屋の先祖、文箱割り

 

 江戸時代、京の貧乏公卿たちが好んで用いたゆすりたかりの手口があった。
「文箱割り」と呼ばれる技である。


 菊の御紋のついた文箱を使いに与え、市街に送り出すところからそれは始まる。使者は丹念に獲物を物色し、やがて「これは」と思った相手を見つけると、走って行ってわざと彼に突き当たるのだ。


 衝撃で文箱が落ちる。
 地面に当たって砕け散る。


 ここからが狂言のしどころだ。使者は血相を変え、この世の終わりのような悲鳴を上げて、


「なんたることだ、菊の御紋を割ってしまった。こんな不始末を仕出かして、とてもお屋敷へは帰れない。帰ればお手打ちになってしまう。今すぐ京から逃げねばならんが、やい、この始末をどうしてくれる」


 そういう意味のことをわめきながら詰め寄ってゆく。


 被害者は内心不服としながらも、割れた文箱には本当に菊の御紋が刻まれているから性質たちが悪い。
 最終的には他国へ逃れる「旅費」として、財布を軽くする破目になる。

 

 

Imperial Seal of Japan

Wikipediaより、菊花紋) 

 


 実力皆無、されども古き血統ゆえに権威だけは持っている、日本の貴族らしいやり口といってよい。


 この時代の公卿の多くが貧窮にあえいでいたことは、今更言うまでもなく有名な話だ。与えられる知行だけではとても食っていけないから、カルタの絵描き楊子削りなどの内職で糊口を凌いでいたことも。


 貧は罪の母と俗に言われる。彼らの間で詐欺的手法が発達するのは蓋し必然であったろう。


 大晦日の晩に、家に火を付けてやると近所の酒家に前触れした公卿もいた。明日は元旦だが、こう貧窮していては餅も搗けんし注連縄も張れん、表に何の飾りも出せん。どうにもこうにも仕様がないから、いっそのこと人の嘲笑を買うより先に自ら家に火を放ち、なにもかも灰にしてやろうと思う。風向きからして、ひょっとするとお前のところも焼けるかもしれん。お前には普段から心安くしていたから伝えておく、要らんものは置き棄てるか人に預けるかして逃げたらよかろう。――


 平気な顔でそういうことを言われたと、江戸時代を生きた人々の回顧録『江戸は過ぎる』(昭和四年発行、河野桐谷編)は述べている。

 

 

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 仰天したのは酒家であった。この年の瀬に来て、家を焼かれてはたまらない。ま、ま、あたしがどうにか計らいますから、ちょっと待っていておくんなしいとこの予告犯をなだめおき、町内の者を集められるだけ呼び集めると必死に説いて、結果百両もの金を工面することに成功。それを渡して、どうにか犯行を思い止まってもらったのである。

 


 いまの人々はそんな馬鹿馬鹿しいことが出来るものかと思ひますが、その頃はやりかねないのです。所司代でも公卿には手をつけることが出来ないし、一々伝奏の手を経なければならないし、又公家などどうせ家は古いぼろ屋ですから、切羽つまるとやりかねないので、みんな心配したさうです。これは実話で、文助といふ、その酒屋の爺さんが話したことであります。(『江戸は過ぎる』29頁)

 


 類似の話はいくらでもある。
 こういういきものが御一新でにわかに息を吹き返し、社会の表舞台に返り咲いたのだからたまらない。


 新政府も、そりゃあ汚職塗れになるだろう。公卿諸法度の拘束のもと呻吟した、長年の鬱屈を思う存分晴らしたわけだ。西郷隆盛が絶望のあまり官を擲ち、隠遁して野の草陰に隠れたいと念願するのもむべなるかな。


 江戸の旗本連中が三百年の泰平に慣れ、戦闘者として使い物にならなくなっていたというのは広く人口に膾炙されたところであるが、公卿の醜状、政権担当者としての低劣ぶりはそれ以上のものがあったようだ。

 

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―アポカリプスと乾電池―

 

 夢を見た。
 滅びた世界の夢である。
フォールアウト3に於けるキャピタル・ウエイストランドのような、文明の痕跡がそこかしこに点在する荒野を彷徨っていた私は、やがてマンション――いや、アレは団地と呼ぶべきか――を発見。何か役立つ遺物はないかと期待して、中へ入ることにした。

 

 

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 探索した部屋の番号は、はっきり覚えている、59号室だ。
 五階の九番目の部屋。だが、509、ではない。59号室。

 べつだんこの数字に思い入れなどない筈だが、何故こんなにも印象に残っているのか、謎である。


 まあいい。結論から言えば、いつ倒壊するか知れたものではない建物に、リスクを冒して入っただけの甲斐はあった。


 便所の壁の小棚の中に、包帯やら医薬品やらの物資がたんまり詰まっていたのである。


 何より私を喜ばせたのは、未使用の乾電池の存在だ。それもいちばん大きな単一の。
 包装のビニールもまだ破っていない状態で、これならば充分使用に堪えると口元を綻ばせずにはいられなかった。

 

 

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 収穫は充分、長居は無用。退き際を見誤って無駄に火傷を負うのもつまらんだろうと判断し、廊下に出、何の気なしに地上を見ると、豈図らんや、駐車場にて動くものがあるではないか。


 人影である。
 それも三つ。


 先頭に居立つのは、あの特徴的な人相、まさか見紛うはずもない。賭博破戒録カイジに登場する大槻班長その人だった。


 どういうわけか、私の夢には福本作品のキャラクターが登場する率が非常に高い。


 幸いにも、向こうはこちらの存在に、まだ気付いてないご様子だ。


 この有利を活用せねば嘘であろう。あの連中との鉢合わせは、絶対に面白からぬ結果を招く。正面は駄目だ、密かに別口から脱出せんと踵を返したところでアラームの音が鳴り響き、私の夢は破られた。


 ああいう世界観を舞台にした、所謂ポストアポカリプス系の作品は、私の大好物である。
 11月8日発売予定の『デス・ストランディングにも、むろんのこと期待している。特にあの作品は、世界崩壊の原因が核戦争でも隕石の衝突でもなく、もっと異質な何かのようで、その点甚だ魅力的だ。
 

 

 

 

 


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土井晩翠激情の歌 ―黒龍江虐殺事件―

 

 19世紀も残すところ五ヶ月を切った、1900年8月3日
 中国大陸東北地方、黒龍江にて耳を塞ぎたくなる惨事が起きた。
 虐殺である。義和団事件の混乱を幸い、この機に乗じて満蒙一帯の支配を盤石ならしめんと画策した帝政ロシアの手によるものだ。

 

 

China Heilongjiang

Wikipediaより、赤い部分が黒龍江省

 


 いってしまえば耕運作業の一環で、将来の豊穣を期せんがために、一帯に住む清国人はまさしく雑草を引き抜くような手軽さのもと戮殺された。死体は無造作にアムール川に投げ捨てられて、それが流れを下って行くのを遠方から眺めると、一見筏の群れのようでもあったという。


 黒龍江事件として悪名高いこの一件はほどなくして大日本帝国にも伝えられ、官民上下のべつなく、全国民を震撼させた。


(人の世に有り得べき沙汰事か)


 後に『荒城の月』の作詞者として日本文化史上にその名を刻む、詩人土井晩翠もまた、衝撃を受けた一人であった。

 

 

Bansui Doi photographed by Shigeru Tamura

 (Wikipediaより、土井晩翠

 


 衝撃どころの騒ぎではない。戦慄のあまり逆にすーっと血が下がり、蒼褪めた白貌を呈するに至った晩翠は、その激情の命ずるがまま、たちどころに一編の詩をしたためた。

 

 

萬馬の蹄飛びちがふ
兵火のあらび幾度ぞ。
教徒の怒血に燃えて
倒れし犠牲いくばくぞ。
さはれ史上の幾千の
時の記録に見るべきや。
神を崇むる大帝の
六軍の師故なくて、
羊に似たる外邦の
五千の民を屠れるは。
見よ幻を天の中
銀髯輝く一巨人、
無限の光胸に在り、
鮮血のあと足にあり。
「われ東西の文明の
光を一にあはしてき。
露人の罪にわが終
身よかくまでに汚れぬ」と
「誰そや汝は」彼答ふ、
「十九世紀の霊を見よ。」

 


 第二高等学校教授時代の晩翠が詠んだこの歌には、しかしながら事実認識に於いて誤りがある。
 犠牲者の数だ。
 晩翠は「五千の民」としているが、実際に黒龍江事件で虐殺された清国人の数は二万五千に達している。
 五千人と聞いてさえ、ここまでの戦慄を起こした土井晩翠だ。実数を知らされていればどうなっていたか、ちょっと見当がつけられない。


 それにしても不思議なのは中国人の心理である。ロシアから手酷く痛めつけられたのは、べつに黒龍江事件が最初でもなければ最後でもない。にも拘らず、遼東半島を平気で譲渡し、遠くロシア本土から鉄道が通されるのを黙って見ていて、その鉄道を伝って盛んにヒトやモノが送り込まれ、中華の大地に北狄たるロシア人の街やら要塞やら軍港やらが築かれてゆく情景さえも唯々として受け入れたのは、いったいどういう精神性のあらわれだろう。


 日本に対しては些細な事件も針小棒大式に誇張して、謝罪しろ誠意を見せろ金よこせと噛みつくのが常であるのに、このあたりの恨み言を中国がロシアにぶつけた例を、寡聞にして私は知らない。


 この不可解さを解きほぐすには、白樺派作家として人道主義的作風で知られた、長與善郎氏の評論に依るのが最適と思う。

 


 支那の排日や抗日は、どうも侮日の方が先らしい(中略)同じ敗けるのならば縁の遠い欧州人に負けたい。隣の小僧に敗ける事だけは業腹だといふ心理は牢として抜けない。見てくれの上では、どう見ても自分達より高等な人種とは見えず、文化の上では自分達が先生であったことはあっても、生徒であったことはないといふ意識だけ胸にあり、その他から教はり学んで進むことをしなかったことが即ち自分達の惨めな今日ある所以であったとは却々反省しない。
 この心理が彼等にあるだけでも両国が真に提携してやって行くことは容易ではない。(昭和十四年、『人世観想』129頁)

 

 

Nagayo Yoshiro

 (Wikipediaより、長與善郎)

 


 氏はまた、別に大陸人気質を評して、

 


 何百年来衰運の降り坂にかかった歴史的勢ひを今更急に挽回して、建て直れるといふものではどうせないので、姑息になるのも無理ない所はあるが、三千年も昔の何千番煎じだか分らないインチキ策謀を以て未だに今の世の中が渡れる積りでゐる。それが馬鹿だ。自分より文化の低い蛮族を、戦争で敗けては人数と文化とで同化して、いつも終局の勝を制してきたといふ歴史だけを恃んで、自分より文化の上の者まで同化して負かせるものと思ってゐる。それが馬鹿だ。前門の虎を防いで、後門の狼にもっと酷どい目に何遍となく遭はされて、未だにその愚を覚ったとも見えない。しかし何よりもこの民族が骨の髄からまじめ、本気といふ気持を失ひきって了ってゐる。誤魔化しと嘘でその場さへ通ればいいと考へてゐる。それが一番済度し難い馬鹿だ。(同上、126頁)

 


 人道主義的作風の長與善郎からここまで馬鹿馬鹿と連呼され、めたくそにこき下ろされるというのは、逆に至難の業であろう。
 色々な意味で、凄い国だ。

 

 

青銅の基督 ??一名南蛮鋳物師の死

青銅の基督 ??一名南蛮鋳物師の死

 

 

 

 


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毒の不思議な魅力について ―ストリキニーネ、及びクラーレ―

 

 世にも不幸なその事故は、1896年イギリスに於いて発生した。

 今でいう製薬会社に勤務する一社員が、薬瓶のラベルを貼り間違えてしまったのである。
 それも風邪・頭痛薬として広く用いられていたフェナセチンと、劇薬たるストリキニーネのラベルを、だ。
 このヒューマンエラーに誰一人気付くことはなく、問題の商品はドラッグストアへ卸されて、結果二名の死者が出た。


 惨というほかない。


 仮に自殺を強いられる破目になったとしても、私はこのストリキニーネの中毒死だけは避けたいものだ。

 

 

Strychnos nux-vomica in Kinnarsani WS, AP W IMG 6016

Wikipediaより、まちんの果実) 

 


 主にインド東部に分布する、まちん・・・という植物の種子から精製されるこの劇薬は、中毒すると非常に特徴的な痙攣反応を示す。後弓反張と呼ばれるこの症状は、読んで字の如く、全身を弓なりに曲げるのだ。


 それも尋常一様なつっぱりではない。恰も後頭部と踵との二点のみで全体重を支えるような姿勢を呈し、しきりに手を震わせて、口からは蟹の如く泡を噴き、時折恐怖に満ちた悲鳴を上げる。


 知識のないものが見れば、悪魔にでもとり憑かれたかと思うだろう。

 実際、映画エクソシストにこんなシーンがあった。


 おまけに何より最悪なのは、ストリキニーネには人を昏睡へと誘う効果がないことだ。このためこの世のものとも思われぬ苦痛を、明瞭な意識のまま延々味わわされる破目になる。


 一旦小康状態を取り戻したとしても油断は出来ない。患者の体どころかシーツにちょっぴり触っただけでも、或いは足音を立てて部屋を歩いただけであっても、その震動は極めて鋭敏に患者に響き、またぞろ例の痙攣反応が再発するのだ。


 そのうち筋肉が融けだして、流出した成分が尿に混ざるようになる。


 いっそ殺してくれと願ったとしても、何もおかしくないだろう。まあ、顎の筋肉も痙攣している所為で、意味のある言葉を発するのはとても難しいわけなのだが。

 

 


 それにしても、マルキ・ド・サド悪徳の栄えで繰り返し描写したように、毒というのは不思議と人の興味をそそる、変な魅力のあるものだ。

 

 

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 折角なので、もう一つばかり独特な毒について書かせてもらおう。


 クラーレという毒である。


 吉村九一が狩りの獲物を求めて南洋の島々を渡り歩いているうちに、遭遇した原住民から教わった毒だ。


 彼らはこれを矢の尖端に塗り、狩りに役立てていたという。以下、製法の抜粋。

 


 矢の先端に塗る毒薬はクラーレといふ。このボルネオ島では、高地の谷間に産する、ゴムの木のやうな、カユイツポといふ大木からとる。ちやうど、ゴム液をとるやうに、朝早く木の皮にななめに切れめを入れておくと、白くにごった液がしみ出して来る。しばらくすると褐色に変り、ねばりけのある汁になるが、それを煮つめると、毒薬の結晶がとれるのである。(中略)このカユイツポといはれる木は、赤道直下の、南米アマゾン川の流域でも生えてゐる。後年アマゾン流域へ行ってみたが、毒薬の製法は全く同じであった。(『南洋狩猟の旅』118頁)

 


 この毒の素晴らしいのは、経口摂取しても中毒にならない、すなわち血管に打ち込まれない限り人体に何ら悪影響を及ぼさない点だろう。


 通常、毒矢で以って仕留めた獲物は、傷口の部分をえぐり取らねば食用にはならないが、クラーレならばそんな手間は必要ない。そのまま余すところなく喰える。無駄が出ないのはいいことだ。

 

 

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 吉村九一の時代から七十余年、現在のボルネオ島では吹矢による狩猟など伝統芸能以外のなにものでもなく、クラーレの原料たるカユイツポの樹も、伐採により激減しつつあるそうな。


 栄枯盛衰、世の転変には抗い難し。ただ、そういうものが嘗てあったということは、記憶しておくべきだろう。

 

 

 

 

 


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