外交にせよ、商談にせよ。まずふっかけてかかるのが交渉術の基本とされる。
過大な条件を突き付けて、そこから徐々に妥協点を探ってゆくのが即ち腕の見せ所であるのだ、と。
近年のサブカル界隈にもまま見られる描写であった。
有名どころでは『スターダストクルセイダーズ』が挙げられよう。パキスタンにて、ジョセフ・ジョースターがケバブを値切ったあの手際。店主の内心まで含め、ほとんどお手本のようだった。
しかしながら、すべてではない。
すべての商人、外交官が、常に如上のメソッドに則るわけでは、むろんない。
ときには敢えて真逆を行く者もいる。素人ではなく、いっぱしの玄人の中にも、だ。
清水雅が、まさに好個の例となる。「阪急の大番頭」の渾名で知られるこの人物を、江田島海軍兵学校の主計官が訪ねてきたのは昭和十年のことだった。
「酒保に並べる商品につき、相談したいことがある」
挨拶もそこそこに、その主計官――青木益次は切り出した。
(青木益次)
酒保とは、早い話が軍事施設に於ける売店。
酒のみでなく、およそあらゆる日用雑貨・嗜好品を販売する機関であった。
江田島に住まう海軍軍人ないし軍属、のべ数千人が酒保の品にて暮らしを保ち、舌と心を潤していたわけだから、その役割は重大である。
――ところが、その大事な酒保の運営が。
全然まったくなっちゃない、少なくとも今年の春から江田島詰めを命ぜられた青木には、「落第」以外のどんな評価も下せなかった。
このあたりの消息につき、青木益次ご本人の回顧談から抜き書くと、
江田島に住んでいる将校や教官の婦人連は都会育ちの人が多い。ところが、酒保で扱っているものは、着物にしても化粧品にしても、近辺のお百姓さんと同じ、呉や広島の商人から仕入れたやぼったいものを並べている。こんなものは、大阪の一流デパートのものを、たくさん仕入れて並べておけば、婦人連中は喜んで買いにくるはずの品物だ、と気づいたのです。また、当時、呉や広島の出入り商人と酒保の書記との間に、おもしろからぬウワサがたっていた。兵学校に出入りすると信用が拡大されるということで、出入り商人が、仕入れ係に菓子折なんか届けるというウワサがたっていたわけです。
規模小なれど、ここにも既得権益の影がある。
青木益次が誕生したのは明治三十七年師走、日露戦争真っ只中のことである。
従って、江田島赴任時点に於いて、年齢実に三十歳。
男盛りといっていい。
闘争心は旺盛だった。「旧弊への挑戦」に、恐れよりも心中大いに湧き立った。この際、兵学校に牡蠣殻みたくひっついているアレやコレやを、まとめて一掃してやろう――。
出入り商人からの物資購入を断然停止、新たな仕入れ先として大阪の一流百貨店を選定すべし。そういう趣旨の改革案を作成し、上官に向け差し出すと、
「いい考えだ、存分にやれ」
意外にも、と言うべきか。
ほとんど即時快諾された。
とんとん拍子で、青木の身は大阪へ。阪急百貨店を訪ね、
「卸部の責任者にお目通りを願いたい」
申し入れると、すぐさまその通りになった。
ここで出てきた「卸部の責任者」というのが、清水雅なのである。
(清水雅)
青木はつらつら経緯を述べて、
「今後は、海軍と阪急の共存共栄でやりたいと思う。江田島自体が使う物資は、たいしたものではなかろうが、もし結果がよければ、関西経済圏の海軍基地、呉、佐世保、舞鶴などの酒保にも紹介する。自分の同僚が主計官をやっているから、江田島でいいとなれば、必ず阪急のものを買ってくれるだろう」
期待感を煽る含みを、最後に足すのを忘れなかった。
そもそもの着眼点といい、軍人にしておくのが惜しいほど水際立った手腕であった。
果たして反応は劇的だった。清水は躍り上がらんばかりに喜び、
「なんと至れり尽くせりの話でしょう」
せき上げるように言ったのである。
すごい瞳の輝きだった。
目の前の海軍軍人を、弁才天の遣いか何かと勘違いしているとしか思えない、そういう熱の入りようだった。
が、清水にしてみれば無理もない。
「いや、ありがたい。正味な話、この物産館は開業以来、赤字続きの有り様で。私にしたって一ヶ月前、社長から、これをおまえの腕で黒字にせよと仰せつけられ、ポストに就いたばかりでしてな。さりとて特に妙案もなく、どうしたものかと、困っておったところです」
そういう事情があったのである。
ならば納得、青木の話は「渡りに船」であったのだろう。
が、だからといって馬鹿正直にそれを告げるということは、通常ならば有り得ない。どうぞ足元を見てくださいと、メガネにペンライトを添えて差し出しているようなものではないか。弱みを晒せばたちどころにつけ込まれ、蚕食される実業界で、まさかこんな男が居ったとは。
(Wikipediaより、昭和十一年、阪急百貨店の雑誌広告)
青木もまた、清水の姿を大きな驚きを以って見た。
初対面の自分に対し、こうまであっさり腹を割ってのけるとは、
(こりゃあ気持ちのいい男だぞ)
好感を持つなというのが無理な話だ。
更に会話を重ねるにつれ、両人はどんどん意気投合し、
「やりましょう、青木さん。なんでもあなたのいいなり放題になりましょう」
ついには清水雅から、こんなセリフまで飛び出す始末。
「ぜひ、末永く――」
青木は青木で、瞳を潤ませこれに応えた。
結論から先に述べると、この言葉は百パーセント真実になる。
江田島の酒保ばかりではない。戦後、海軍の消滅により、路頭に迷った――本人曰く「ルンペンになった」青木益次は、ほどなく建設業に活路を見出し、ブルドーザー工事会社をはじめるわけだが。その経営を陰日向なく支援したのが、清水雅だったのだ。
(Wikipediaより、ブルドーザー)
青木の会社を「私の親戚会社」だと事あるごとに紹介し、コネクションの形成に計り知れない便宜を与えた。
再び青木の回顧談を参照すると、
なにか問題が起こるとすぐ清水さんのところに教わりに行きます。そして「この工事は大赤字なんだが……」とか「この工事は、うまいこといって、予想以上に技術革新を打ち出せたが、さらによくするにはどうしたらよいか」などと、ザックバランに報告し、教えを乞うわけです。すると清水さんは「これはこうすべきや」とか「ここが肝心やな」とか、いろいろ教えてくれるのです。そのとおりやってみると、ほとんど、うまくいきます。私にいわせれば、神のごとしと思うほど、ほんとうにまれに見る大経営者です。
蜜月ぶりがよくわかる。
すべては昭和十年の、あの一座からはじまったこと。
交渉術もへったくれもない清水雅の赤裸々が、日本屈指の建設会社、青木建設を世に生んだ。
運命はなんと奇妙なものか。
いっそ荘厳ですらある。
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