大小切という「信玄公以来の祖法」消滅の危機に直面し、ただ身を寄せ合い、コマッタコマッタと首をかしげているだけが甲州人の能にあらず。
一張羅に袖を通して、えっちらおっちら峠を越えて、県庁へと馳せ参じ、陳情の声を上げる「有志」がそこかしこから
が、効がなかった。
このあたり、再び水上文淵翁の記録を参照すると、
茲に東山梨郡松里村、旧小屋敷の長百姓に小澤留兵衛なるものあり、同郡の諏訪村旧隼の倉田利作同郡岡部村旧松本の嶋田富十郎と相謀り、八月八日甲府へ出張、武田氏の祖法を存置せしめられんことを歎願せしも、県庁聞かざるを以て、十日各村の者出張して再び歎願せんとす(昭和五年発行『維新農民蜂起譚』242頁)
末尾にある十日の歎願。
ほとんど村を空にする勢いで展開されたこの運動も、結局は不首尾に終わったらしい。
――県庁の初期対応がよくなかった。如何にも相手を「無知蒙昧のどん百姓め」と馬鹿にしきった、人情を解さぬものだった。
遥かな後年、書き立てたのは、東京日日新聞の記者。
…この騒動は首謀者の絞罪と、三千七百余人の処刑によって終結したほどの大騒動であったが、信玄時代の大小切制度に代る地租に反対して、県民が嘆願したところ、お役人は
こういう記事は暗に当時の権力者への面当て目的、
が、まるきり根も葉もない話でもなかっただろう。県庁には県庁の言い分がある。対応に当たった「お役人」は、さしずめこう思ったのではなかろうか。
(こいつらは時勢がわかっていない)
すなわち、今が民族存亡の危機であるということを。
維新回天成ったりとはいえ、大和島根はまだまだ未熟。その未熟さに気兼ねして、文明開化を下手にまごつかせようものならば、たちまち列強にくみしやすしと侮られ、国土を蚕食されてしまうに違いない。
身の毛もよだつ、暗黒の未来図というものだった。
(その到来を防ぐ手段はただ一つ)
この極東の島国に、鞏固な近代国家を建設するより他にない。
辺境の未開人種めが、と軽蔑されない「知」と「富」と「力」を兼ね備えた国家を、だ。
その大目的実現のため、全日本人が一丸となって邁進しなくばならない
(こいつらは、言うに事欠いて)
自分達にとってのみ都合のいい税制を、そのまま留め置いてくれとはいったい何という僭越だろう。
おまけにその根拠を糾してみれば、何百年も昔に死んだ封建領主の墨付きとあっては何をかいわんや。
(脳に黴でも生えているのか)
お役人は留兵衛ら陳情者の一行を、旧弊に盲目的にすがりつく前時代の亡霊と見た。見て当然だった。
(こんなやつらの言い分をいちいち斟酌してやっていたら、百年経っても日本は近代化を成し遂げられない)
もはや憎悪すら感じはじめてしまっている。
語気が荒くなるのを自分でも制御しきれない。気付けばけんもほろろに追い出して、つい言わでもなことまで言ってしまった。つまり、
――いいか、もしまた
という上記のセリフを。
ただでさえ短気な甲州人の利かん気に灯油をぶっかけ、その上で火打石を叩いたようなものだった。
「あれは平氏ぞ」
帰路、誰はともなしに口にした。
この国では古来より、暴君を喩える場合その言葉を引き合いに出す。驕り高ぶり京の都を好き勝手に壟断した、『平家物語』の風景を。
――沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を、驕れる
実際問題、ああまで罵倒され嘲弄されて、すごすごと引っ込むようならば、そいつはもう男ではない。
玉なしの腑抜けと見下げ果てられ、生涯日の当たる場所を歩けなくなることだろう。
少なくとも皆をここまで引っ張ってきた留兵衛、利助、富十郎、すなわち「首謀者」の面々らには奮い立つ義務が存在した。
斯くて首謀者或は毎夜四五人留兵衛宅に集り何事か相談を為すも、家人は勿論親戚の者も其真相を知るものあらざりしと云ふ、頓て密かに檄を山梨、八代の各村に飛ばせしが、各村は鐘太鼓を鳴らし、寺院又は神社に集会を催し、各村一致強訴せんと、其期日を待ち居れり。(『維新農民蜂起譚』244頁)
(どうも、百姓どもがキナ臭い)
県庁の方でも情勢の不穏さに薄々勘付き、
――決して心得違いの無きように。
といった趣旨の布告を各村宛てに出したようだが、もはや後の祭りであった。
弓につがえられた矢は放たれねばならない。必然として、その瞬間は訪れた。
明治五年八月二十三日、山梨、発火。
九十七ヶ村六千人の農民が手甲脚絆に身を固め、竹槍・蓑笠・蓆旗をちゃんと揃えた百姓一揆の伝統的な
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓