天保七年というから、ちょうど「天保の大飢饉」の只中である。信濃国水内郡丹波村の近郊で、行き倒れた男の死体が見つかった。
ざっと見歳は五十内外、持ち物は杖と笠のみであって、そのうち杖には紙片が結わえられており、開くと次の一首が認められていたという。
江戸時代末期に出版された随筆集、『宮川舎漫筆』に収録されたエピソードである。
著者たる宮川政運は、この行き倒れを「哀れにもいとやさし」と評価した。
こういうのに触れるたび、人間、死に際は美しく飾るべきだとしみじみ思う。
本来絶対的な恐怖の対象であるはずの「死」を前にして、なおも浩然たる意気を崩さず、颯々と一句詠ってみせる。所詮は虚勢に過ぎないが、その痩せ我慢の姿こそ、私の眼には何より尊く映るのだ。
畢竟世に謳われる精神美など、虚飾の美しさ以外のなにものでもないだろう。
魂の緒がぷつりと切られる最後の最後、一刹那の間際まで見栄を張り通すことが出来たなら、それはもう真実以上の真実として取り扱って構わない。問答無用で胸を打つ。
少なくとも私一個はそうした感性の持ち主であり、そんな私の琴線に触れた辞世を幾つか、抄出して紹お目にかけよう。
金沢出身の陸軍軍曹、勝木正雄の作。
沙河会戦――22万からなるロシア軍の一大反転攻勢に、12万の日本軍が迎え撃って撥ね退けた日露戦争きっての死闘――にて弾を受けた軍曹は、息を引き取る寸前に、実兄宛てに手紙を認め、
来処を知らざれば去処を知らず、三界不可得の我、今より閻魔の庁に突撃し、神や仏を部下と為し、三千の美人に鼻毛をよませ、俗界三十年の鬱を晴らし申さん、また快心の事ならずや。
と綴った末尾に、上の辞世を書きつけた。
天狗党の幹部として首を打たれた山国兵部の、
や、更に遡って幡随院長兵衛の敵役として聞こえの高い旗本奴、水野十郎左衛門の、
地獄の底へ所替へせん
落とすなら地獄の釜をつんぬいて
あほう羅刹に損をさすべい
を彷彿とさせる、古武士然たる句であろう。
歌舞伎役者、片岡市蔵の辞世。
明治三十九年に世を去った、三代目のものである。
明治初期には団十郎と並び称され、天下の人気を二分するほどの器であった。
同じく明治三十九年を死期とした、磯部百鱗の辞世の句。
「神都有数の画人」と称され、彼の門から伊藤小坡ら数多くの傑物が出た。
ここらでちょっと死んでみようか
文政の奇僧、正念坊が遺せし句。
京都の外れに念仏堂の庵主をしていたこの人物は、毎朝自らめしを炊くのを日課とし、炊きあがったその銀飯を櫃に移して肩に乗せ、位牌の並ぶ部屋に飛び込み、それ嗅げそれ嗅げと唱えながら一廻りしなくば決して自分の口には運ばなかった。
貰い物があっても同様である。
また漬物をするときは、石地蔵を持って来て漬物石の代用とするのが常だった。
何か、彼なりの哲学でもあったのだろう。
奇人といえば、好酒院杓盃猩々居士は外せない。
本名、前田金兵衛。
明治二十年ごろまで生きた元旗本で、人外めいた酒豪であり、若かりし日には将軍の御前で一斗二升を呑み干したという巷説すら持つ。
上の突飛な戒名も、生前自分でつけたもの。
本当に大好きだったのだろう。
四代目鶴澤文蔵が辞世の句。この優れた三味線弾きは、死を単に終焉と視ず、極楽への転生と扱っている。
よく似た響きを持つ詩に、早川文右の
がある。
今日こそ返れ無為の
天鶏山人こと志賀理斎の辞世の句。
宝暦十二年、伊賀者の家に生を享け、学問に通じ、長じては江戸城奥詰めとなり、ついには金奉行まで進んだ士。
七十九歳という、当時にしては珍しいほどの長寿を保った。
(Wikipediaより、伊賀盆地)
晩年に逸話がある。
そのころ理斎は病に犯され、もはや自力では立つことすら満足に叶わなくなった状態であり、それを見かねた看護の者が思わず神に祈ろうとすると、理斎意外にも烈火の如く怒り出し、
「人間には寿命がある。寿命には限りがある。それが尽きれば斃れるのは自然である。何をば余計なことをして、神を煩わせようとするぞ」
ぴしゃりと叱りつけてしまったという。
神を尊び神仏に頼らずを体現したというわけだ。
見事としか言いようがない。神と人の、あらまほしき付き合い方であるだろう。
近頃の創作物を眺めていると、どうも神に愚痴を垂れる輩ばかりで興が殺がれて仕方ない。古人の爽やかさは何処へ行ってしまったのだろうか。そういう私自身の口吻も、なにやら時代遅れの老爺の泣き言めいていて自己嫌悪だ。
それも術なし神にまかせん
佐々木弘綱よ、伊勢に生まれた国学者よ、我が心に清風を吹き込んでくれ。
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