【お詫びと訂正】
前回の記事に於いて、阿部守太郎氏の役職を誤って表記したことをお詫び致します。
政務次官ではなく、正しくは政務局長でした。
誤った情報の発信を心の底から猛省し、以後の再発防止に努めたいと思います。
誠に申し訳ありませんでした。
事件後、世間の注目は被害に遭った阿部守太郎より、むしろ暗殺犯たる岡田満にこそ集まった。
考えられる要因は大きく二つ。まず、岡田の年齢が十八という、みずみずしい青年に過ぎなかったこと。
もう一つは、彼が警察に逮捕されるより先に、自刃してこの世から去ってしまっていたことである。
岡田満。
福岡県鞍手郡勝野村の産である。同村は昭和三年一月一日、町制施行によって小竹村と改まり、二〇一九年現在まで続く。
福岡という、大陸にほど近い場所に生まれた影響だろうか。岡田はかねてより玄界灘の向こう側の情勢に並々ならぬ関心を寄せ、特に日本の対支外交のやり方が不満で不満で堪らなかった。
この想いは隣接する企救郡に宮本千代吉という同質の男を見出したことで、いよいよ激しく燃え上がる。相乗効果といっていい。宮本は岡田の三つ年上であったが、そんな隔てなど無いかの如く、二人はすぐさま意気投合したという。
互いに腹の内の情念をぶつけ合い、切歯扼腕悲憤を高め合っていたところに南京事件の報せである。両人はもはやこれ以上、この日本国の片隅に逼塞していることが出来なくなった。
跳ね飛んだといっていいほどの慌ただしさで首都へ駈けつけた両名は、まず事の真偽と性根の
が、更に筆者を困惑させてやまないのが、この申し込みに阿部守太郎がすぐさま応え、直々に両人を引見したということである。
もっともこのことを証明するのは逮捕後に於ける宮本千代吉の供述だけで、当然幾分かの脚色が施されているはずであり、手放しに信じるわけにはいかない。
常識的に考えれば、紹介状の一枚も無しに押しかけてきた、言っちゃあ悪いがどこの馬の骨とも知れぬような若造二人を、阿部守太郎ほどの政府高官が軽々しく招じ入れる筈もないであろう。ましてや当時は南京事件に対して下手な発言をした所為で、外務省に批難が集中していた頃である。
ただ、まるきり創作と断定することも出来ないのは、安田善次郎の一件があるからだ。
この安田財閥の祖も、朝日平吾と云う「何処の馬の骨とも知れぬような」――事実一個の無頼漢に過ぎなかった――男と直接面会し、その話を聞いてやり、結果暗殺の憂き目を見ている。
財界人と政界人とを同一に語るわけにはいかない。重々承知の上である。だがしかし、ひょっとすると当時の人は、現代人が考えるよりずっと気安く訪客に会ってくれたのではなかろうか?
とまれ、否定しきることも出来ない以上、ここは宮本の供述を前提として――すなわち阿部局長と両名との面会が現にあったものとして――話を進める。この面会の場で阿部は、極めて憎体に振る舞ったという。
「輿論が何と言おうとも、構ってなどいられるか。衆愚が何を知るという。この件に関して外務省にはとうに立派な方針がある。我々は局外者の掣肘を排し、あくまでこれを貫くつもりだ」
と、断定と男気に満ち満ちた、およそ官僚的答弁からもっともかけ離れたことを言い、岡田が激昂して論駁すると、
「自分は日露講和当時に於ける小村寿太郎を以って自認している。外務大臣の牧野伸顕男も自分を信頼して外交権を一任してくれた。君達から警告がましいことを聞く必要はない」
いよいよ水の如き冷静さを発揮して、これを一蹴したという。
――阿部、刺すべし。
岡田と宮本の方針は、その一事に決定した。
以後数日間、両人は執拗に尾行を続け、阿部局長の隙を窺い、一度は虎ノ門派出所の巡査に訊問されておきながら、辛くもこれをやり過ごし、ついに運命の九月五日、その好機に際会する。
この日の夕方、伊集院前駐支公使が帰朝するとあって、外務省の人々はその出迎えに新橋駅まで赴いていた。
阿部局長もその中に顔を連ねており、事が済むとそのまま松井慶四郎外務次官の馬車に同乗して帰途につく。自宅に近い赤坂の霊南坂下で降してもらうと、そこから先は一人であった。
このとき既に岡田と宮本は阿部邸の門内にひそみ、主人の帰宅を今か今かと待ち受けている。
来た。
と見るや、二人は弾かれたように機敏に動いた。まず宮本が飛びかかり、むしゃぶりつくように抱き着いて動きを止めると、無防備なその背に岡田が匕首を突き立てた。このとき阿部局長は、
「あ痛っ」
と闇夜に叫びあげたという。
(仕すましたり。――)
手応えは十二分。命にとどいたと確信し、二人は即座に逃げに転じた。
ところがその背を、
「泥棒、泥棒」
とわめきながら当の阿部局長が追ったというから、この人も尋常一様な器ではない。
暗殺者たちは刺しただけで、別段何かをかすめ取ったわけではないが、この場合阿部にとっては近隣住民の耳目をそばだてさえすればそれでよく、そういう意味では「放火魔」でも「痴漢」でも、何と叫んでも構わなかった。
が、岡田の見立てが正しかった、ということだろう。
阿部の負った傷は深く、ほどなくどうと地に倒れ、それきり二度と起き上がれなかった。
「大変だ大変だ」
騒ぎを聞きつけ、駆け付けた人々が自宅に運び入れたものの、阿部の息は既に細い。
医師の懸命の手当てもむなしく、翌日の午前十一時、死亡確認。享年四十二歳であった。
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