穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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酔わずに何の人生か

 

 アメリカ政府がジャガイモを「野菜」ではなく「穀物」と認定せんとしていると、そんな挙動うごきが濃厚なりと仄聞し、思い出したことがある。


 そういえば明治時代にも、合衆国は食品の分類如何いかんで揉めていた。新規のとある輸入品、日本酒をどのカテゴリにぶち込んだらいいのかで、お偉方が意見を闘わせたものだ。

 

 

 


 酩酊感を齎すが、あからさまにビールではない、蒸留過程も経ていない、シャンパンともどうやら違う、なら何だ・・・・。何の仲間に含めればいい? ――なにしろ事は関税率に直接関わる沙汰だけに、財務省の役人どもの関心たるや並でない。眼を血走らせ、眉間の皴も濃く、深く。本気の注意を向けていた。


 豈図らんや、やがて彼らの心配は、思いきり実現の破目を見る。


 一九〇七年七月十一日付で司法の下した決断は、行政の期待に背くこと尋常一様の沙汰でない、まさに無慈悲な鉄槌として機能した。

 


「日本酒は蒸留酒にあらざれば毎瓶五十セントの関税を課するべからず、又麦酒にもあらざれば毎瓶二十セントの課税すべき物にもあらず、畢竟不定科目に属するを以て、従価二割すなわち毎瓶十セントの関税にて足れり

 


 こういう意味の声明が、巡回裁判所の名のもとに発表されたそうである。


「やり直しだ、やり直しを希望する」


 財務省では、むろん直ちに上告措置に踏み切った。


 ――馬鹿も休み休み言え。


 というのが、彼らの本音であったろう。

 

 

U.S. Treasury Building and Albert Gallatin Statue

Wikipediaより、合衆国財務省庁舎)

 


 毎瓶たかが十セントでは、今日まで彼らの設置していた仮課税より、大幅に下回ってしまうのである。


 その結果、輸入業者に払い戻すべき過徴金の総額は、百五十万円を突破する。現在の貨幣価値に換算すれば、六十億円以上であった。手痛い出費どころではない。関係者が幾人か、首吊り死体に化したところで不思議ではない規模だろう。いや、ヤンキー流なら荒縄よりも、銃で一発、ズドンとやるのが主流だろうか?


 まあ、それはいい。


 新旧税率の差し引きだけで六十億円以上まで額が膨れ上がる点、維新このかた、日本酒は、割と、案外、合衆国の各港に荷揚げされ、白人どもを酔い狂わせていたようだ。

 

 

江戸東京たてもの園にて撮影)

 


 それから時は大きく流れ――。


 二度の改元を経た日本国、昭和十年代ともなると、如上の事件もいっぺんの昔語りと化し去って、それこそ酒席に興を添うべく古老どもが説き聴かす、追憶に過ぎなくなっていた。

 


「…日本の酒は最早世界の固有名詞となって、サケと云へば何国人にも判る、だからサケの事など今更何も変な洋語に翻訳せなくてもよい、サケで沢山だ。芸者や桜を訳してゼンゲリンとかチェリーとか云へば却って西洋人に判らなくなり、若し判るとすれば笑はれる。スキヤキを牛肉の鍋焼と訳しては日本人にすら通ぜないと同様酒も翻訳しない方がよい」

 


 陽気に豪気に語るのは、ごぞんじくだんの法学士、松波仁一郎その人だ。


 来し方に想いを馳せたなら、小さな猪口の中にさえ、うたた感慨、迫るものがあったろう。

 

 

Matsunami Niichiro

Wikipediaより、松波仁一郎)

 


 松波はまた、

 


酒は嫌な事を全く忘れさせて、洵に健康に良い、肉体の健康に良く又精神の健康に良い。だから新年早々宜しく快哉として飲るべしだ、言ふまでもなく適度にだ。ナニ中々適度に止まれないと、そんな意志の弱いことで日本人になれるか」

 


 酒呑みの筆者わたしが余計酒好きになるような、たまらぬことを書いている。

 

 

 

 

 


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便所と大臣


 文部大臣多しといえど、学校視察に向かう都度、便所の隅まで目を光らせて敢えて憚らなんだのは、およそ中橋徳五郎ぐらいのものであったろう。


 話は尾籠に属するようで若干引け目を感じるが、これは至って真面目なことだ。


 少なくとも中橋大臣本人は、猟奇趣味にも変態性欲を満たす為にもあらずして、己が職務を全うするのに不可欠なりと判断し、この上なく真剣に、信念を持ってやっていた。

 

 

フリーゲーム『操』より)

 


 なんでも彼に言わせれば、便所の壁こそ学生が、もっとも赤裸に、明け透けに、言論戦を展開できる場所なのだとか。なるほど確かにSNSも、電子掲示板すらも未発生な彼の時代。心の澱を吐き出す場所は現代よりもずっと限定されていた。手段の面でもアナログたらざるを得ない。そのあたりを考慮に入れれば、中橋の弁にも一理ある。


 だから便所のチェックほど、そこの校風を掴むのに手っ取り早い業はない。――そんな認識に立っていた。


 手法の正誤はともかくとして、仕事のためなら泥土どころか、もっと汚い糞尿塗れも厭わない、捨て身の熱意は感心するに値する。俺は大臣様だぞとお高くとまってふんぞり返り、現場の苦労にゃ無関心。しかもそのくせ部下の手柄を掠める手腕うでだけやたらと発達してやがる、寄生虫より百倍マシだ。


 イエローハットの創業者、鍵山秀三郎氏とは大いに気が合うことだろう。

 

 

Tokugoro nakahashi

Wikipediaより、中橋徳五郎)

 


 同時代にも理解者は居た。


 松波仁一郎法学博士が、その最大手と言っていい。


 随筆に於いて彼は云う、

 


原敬が内閣を組織した時、中橋徳五郎は入閣して文部大臣になった。その中橋は高等学校を濫設したり官立大学を簇立させる様なヘマをやり、或は又荘厳なるべき学校の卒業式の祝辞を『であります』なぞと茶化したりして識者の顰蹙を買ったが、一つ感心な事をして範を後世に垂れた。それは男女学校の便所視察である。…(中略)…全体にアノ個所程学生が自由自在に天然自然の思想感情を流露する所はない。故に自己の職責を知りて学生の訓育に忠実なる校長や首席訓導は大に此の所に注意して教育の参考資料を得べきである

 


 と。

 

 

 


 人間世界は万事につけて綺麗事では済まされぬ。


 教育もまた「汚れ仕事」の側面を、ちゃんと備えているようだ。

 

 

 

 

 


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壁に耳あり障子に目あり、ならもう全部焼き払え


 屋根に関して、まま行政はやかましい。


 東京、神奈川、京都あたりの一部地域でソーラーパネルの据え付けが義務化されつつあるように。


 明治四十年代も、市民の頭上に「官」が嘴を入れてきた。茅葺屋根の根絶を、「お上」の威光を以ってして推し進めんとしたものだ。

 


「家屋其他建物の新築改築又は増築を為さむとするものは、瓦石其他の不燃物質を以て其屋上を覆復し、現在の燃質物屋上は十箇年以内に改葺する事とし(中略)…違背したる者は二円以上十円以下の罰金に処す」

 


 警視庁の名に於いて、如上の趣旨のお達しが発令されたわけである。


 時恰も明治四十年、五月十六日だった。

 

 

江戸東京たてもの園にて撮影)

 


 まさか当時の警察幹部が瓦職人あたりから賄賂をもらった所為でもあるまい。


 東京を不燃の都にするために。――維新早々、由利公正が掲げた理想。昔日の大目的に近付くための、正当な努力であったろう。方針は一貫しているのである。


 裏を返せばこの頃までは華の東京市内といえど、まだまだ古色蒼然とした茅葺屋根が立ち並ぶ、江戸の面影を完全に拭い去れてない、新旧混和の姿であったということか? 理屈の上では、どうもそうならざるを得ぬ。


 日露戦争の勝利から、二年を経たにも拘らず――。

 

 

Tokyo street 1905

Wikipediaより、銀座煉瓦街、1905年頃)

 


 戦勝といえば、これよりおよそ一年以前、すなわち明治三十九年に寺内正毅陸相が、「勝って兜の緒を締めよ」的な良い演説をやっている。


 本意はしかし、機密保持に関連しての四の五のだ。

 


「軍事上の事は凡て機密を要するは勿論なるに、頃日往々機密の事項が世間に漏洩せるを見る」――本来固く守られていて然るべき、大事な大事な暗号文の解読表がたかだか5000フランぽっちで売買されていたことは、忘れようにも忘れられない痛恨事であったろう――元来軍機の秘密は戦役中に於て緊切なるは論を待たずと雖も、亦平常に於て之を持続せざれば毫も其効なし、今や我国は高貴なる鮮血を以て購ひ得たる軍事上の経験の多くを有す、而して此等の一部分でも他に漏洩せんか、細密にして周到なる探訪者は巧みに之を綜合して、遂に其全般をも観取せらるゝに至らん、果して然らば折角の苦心も水泡に帰するを以て、此際最も注意を要するの時期なれば、決して弛廃すべからざるなり」

 

 

Masatake Terauchi 2

Wikipediaより、寺内正毅

 


 およそ寺内正毅の政治能力に関しては毀誉褒貶の付き纏う、だいぶ触れにくい男だが、上の訓示に関してのみは単純だ。正論も正論、非の打ちどころの見当らぬ名演説といっていい。


 スパイ防止法、セキュリティ・クリアランス制度の導入、総じて防諜体制の整備が急務である現下、味わう価値がきっとある。あると信じて、引っ張らせていただいた。


「戦時でも平時でも、政治でも財政でも諜報がすべてである」――ツヴァイクに俟つまでもなく、情報戦に優位を占める重要性は、それこそ万古不易ゆえ。

 

 

シュテファン・ツヴァイクの書斎)

 

 

 

 

 


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ナイフ一本、返り討ち


 研師にして剣士。


 どちらの手腕うでも紛うことなき一級品。


 そのまま時代劇中のキャラクターに具せそうな、――山尾省三はとかく刃物の扱いに熟達したる者だった。

 

 

(『Ghost of Tsushima』より、刀鍛冶)

 


 米寿を超えてなおも現役。髪は落ち、皮膚は弛んで白髭をちぢれさせようと、指先の冴えは失わぬ。鳥取県米子城下の四日市に居を構え、農具や庖丁等を手入れし日々の稼ぎに充てていた。


 職人として好ましき老い方であるに違いない。「生涯現役」、ほぼほぼ理想に近かろう。


 そういう山尾省三が、どうしたわけか、あるとき人を刺殺した。


 正確な日付を示すなら、昭和五年の三月二日。


 相手は若齢二十七歳、山尾省三の半分どころか三分の一も生きてない、戸田菊造という男。


 刃渡り五寸のナイフ一本が凶器であった。

 

 

(『Ghost of Tsushima』より)

 


「いったい何の冗談だ」
「逆だろ普通、常識的に考えて、逆であるべきじゃないのか――」


 噂はたちまち県下一帯に広まった。


 なにしろ構図が妙である。


 祖父と孫ほどに年の開いた二者間に於ける殺人事件。しかも殺ったのは血気盛んな若者でなく、枯れ朽ちてゆくばかりの老人の方。


 話題性は十二分、刺激を求める大衆心理に如何にも迎合しそうでないか。


 現にした・・鳥取一県にとどまらず、本件は全国紙にても取り扱われることとなり、わけても『大阪毎日』「九十爺の人殺し」なるセンセーショナルな見出しを付けて書き立てた。


 いま試みに記事本文を引用すれば、

 


米子市四日市町刀剣研商山尾省三(90)は昨年秋自宅附近の街頭で人参薬を売ってゐた米子氏博労町戸田菊造(27)の言葉がをかしいと笑ったのが元で絶えず戸田と口論をつづけてゐたが二日午後一時ごろまたもや市内尾高町で喧嘩をし山尾が一たん帰宅すると戸田が山尾の家に押かけ殺してやるから表に出ろと引ずり出さんとしたので――ざっとつらつら窺う限り、被害者戸田もあまりガラのよい奴でない。このケースだと、正当防衛は成立するのか、どうなのか。微妙なラインであったろう。夜分家中のコソ泥を一刀両断しようとも無罪になった頃だから――「山尾は逆上し戸棚にあった刃渡り五寸余のナイフを取るが早いか戸田の脇腹、腹部等三ヶ所に斬付け殺害した」云々と。

 

 

Yonago Station01bs4592

Wikipediaより、米子駅

 


 いやはや刃物はおそろしい。


 使い手に心得さえあれば、青年・老人の体力差などまるで問題にならないと、如上の件が奇しくも證明してくれた。喧嘩で刃物を出されたら即座に身を翻し、全速力で逃げろという忠告は、やはり真であるようだ。


 ところで山尾省三儀、昭和五年1930に九十歳ということは、生まれは天保十一年1840かその前後。


 黒船来航以前どころか、アヘン戦争の火蓋が切られたばかりでないか。

 

 

 


 江戸時代の空気を吸って人となった者である。愚弄するには、あまりに危険な相手であった。

 

 

 

 

 


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外面菩薩、内心夜叉


 役者というのは結婚すると人気が落ちる。


 たった一人の生涯の伴侶を得ることは、何百、何千、何万倍の、異性のファンを失うのと引き換えである。


 この俗説は、果たして真なりや否や――。


「そういうことは、事実、けっこう御座います」


 神妙な面持ちで頷いたのは、六代目尾上菊五郎

 

 

Kikugorō Onoe VI as Kan Shōjō

Wikipediaより、六代目尾上菊五郎

 


 若干二十三歳の折、妻を迎えてまだ一年も経ていない、初々しい身であれど。効果というか周囲の変化は激甚で、嫌でもはっきり自覚せずにはいられない、猛烈性を帯びていた。


 地殻変動にも喩うべき、ファン層の入れ替わりがあったのだ。

 


「独身時代の贔屓は婦人に多く、妻を有してより後の贔屓は男に多ければ、妻をたぬ時の贔屓よりは反って有って後の贔屓こそ極めて有力なる後楯とも云ふべく、殊に妻帯してより尚ほ贔屓にせらるゝ婦人は、全く自己の芸、自己の人格を見抜いてよりの贔屓なれば、これ等こそ実に得難き人々にして、要するに私の贔屓は却って妻帯せぬ前よりも其後の方が多い様に思はれます」

 


 絶対数では減少したが、の面では、むしろ向上したのだと、つまりはそういうことだろう。


 大谷翔平の結婚を機に、菩薩の皮をかなぐり捨てて夜叉の性根を丸出しにした「女性ファン」の多きを眺め、不意に脳裏に去来したのが、上に掲げた菊五郎の談話であった。


 明治の女性も、令和の女性も、スターの色恋沙汰に関して示すところの反応は、本質的にさまで変動していない。どうもそういう判断を下さざるを得ぬらしい。

 

 

 


女性はいつでも敵を持ってゐる。敵がなければ敵を案出する。憎しみの対象がなければ生きてゐる気がしないからである。そしてそれと同時にいつでも味方を持ってゐる。その味方を自分だけの味方としたいと思ひたがってゐる。嫉妬心と淋しさ心細さとからである」――ニヒリスティックな文筆家、廣津和郎の見抜いた真理。


 末尾に附しておきたくなった。


 なんとはなしに、相応しく思えたからである。

 

 

 

 

 


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喜ばしき欠落


 明治三十九年一月十四日午前十時三十九分、東京、新橋駅頭は空前の熱気に包まれた。


 凱旋したのだ、英雄が。


 日露戦争の将星人傑多しといえど、わけても一際異彩を放つ、嚇灼たる武勲所有者。おそらくは東郷平八郎と国民人気を二分する、陸軍界に於ける聖将。第三軍司令官、乃木希典大将が、とうとう帝都に帰還した。

 

 

水師営にて)

 


 いやもう、人、人、人である。


 強きを欲し、強きに焦がれ、強きに向かう日本人の性情が極端に発揮されたと見るべきか。東亜に向かって伸ばされた帝政ロシアの魔の手を払い、みごと勝利をもぎとった、烈士の姿を一目ひとめなりとも拝まんと、殺到して已まぬ民。東京どころか日本中の蒼生が新橋駅を中心とした半径数キロ圏内に集合したと言われても、思わず信じかねない景色。千切れんばかりに旗を振り、「万歳」からなる歓呼の声は百雷一度に落つるが如しで、寄る人波に大将自身、ときにまったく立往生の観を呈したほどだった。


 しかし、しかしだ。


 果たして何人が気付いたろうか。


 盛大極まるこの出迎えの群衆が、しかしその実、肝心要のたったひとりを欠いていたということに――。


 そのひとりとは、言うまでもない。


 乃木希典にとってのツガイ、静子婦人、その人である。

 

 

Count Nogi and his wife

Wikipediaより、自決当日の乃木夫妻)

 


 なにゆえ妻は夫にとってのこれ以上ないハレの場に駈けつけようとせなんだか? 理由は単純、差し止められていたからだ。他でもない、夫自身の手によって――。


 乃木希典は、しっかり厳命しておいた。

 


「出征したるものが運ありて命を損ぜざる以上は何時か帰るは当然の事、其上我部下の壮丁の戦場に斃れしもの頗る多し、戦争とは云ひながら面目もなき次第、凱旋の日とて出迎無用

 


 如上の書簡、訓戒を、事前に我が家へ送附しておくことにより、だ。


 静子婦人は従容として従った。


 乃木希典が仄かな満足を持ったのは、自分を迎える幾千幾万の民草があったことよりも、唯一無二の伴侶の影がその中に無いことだった。

 

 

(明治末、新橋駅)

 


 天気晴朗、空に一点の雲翳を見ず、一天鏡の如くなり――。


 当日の気象記録であった。


 陽光にたっぷり恵まれて、乃木希典は凱旋の儀をえている。

 

 

 

 

 


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尊皇攘夷の秋は今 ―明治三十七年、対馬―


 もはや開戦秒読みの時期。


 再三の撤兵要求を悉く無視し撥ねつけて、帝政ロシアが持てる力と欲望を極東地域に集中しつつあったころ。


 スラヴ民族の本能的な南下運動を阻まんと、大和民族が乾坤一擲、狂い博奕の大勝負に挑まんとしていたあの時分、すなわち明治三十七年、日露戦争開戦間際。


『報知新聞』に投書があった。


 送り手は、玄界灘の一島嶼対馬に住まう老人である。

 

 

(『Ghost of Tsushima』より)

 


(ははあ)


 担当記者は内心密かに、


(来るべきものがついに来たか)


 と頷いた。


 中世期、元寇という日本史上稀にみる本格的な対外戦争を経験した土地だけに、およそこの種の騒ぎには敏感たらざるを得ないのだろう。言いたいことの一つや二つ、当然あろうというものだ。

 

 

(同上)

 


 しかしいざ、中身を改める段に及んで、彼は自分の予想というのが如何に甘かったかを知る。

 

 ものの二秒で理解わからされたといっていい。


 以下が即ち、その劇物の全容だ。

 

 

 一筆啓上、今回は大事件にて候。記者先生も定めし御心配と存候。対州厳原人は最早や何れも立派に覚悟致し居り。拙老は本年七十二歳にて病臥中に候間、去る九日一族縁者を拙宅に招き、拙老枕頭に於て左の如く相定め申候。

 

一、日露戦争相開け候暁には、先づ拙老を刺殺し、屍骸を土中に埋め候事。


二、婦女子小児等は博多表の親戚へ預候事。


三、壮年の男子は悉く兵器を執て、神国の大敵を討ち払ひ可申もうすべく候事。

 

 是れ拙老一家一類の覚悟のみに無之これなく隣家の老夫人も戦争相始まり候へば自殺の覚悟致され居り候。我対州人は十四五の少年と雖も男子は踏み止まりて血戦の覚悟仕居り候。日本全国の国民諸君も我対州人と同じく御覚悟被下度くだされたく希望に付、貴紙に投書仕候也。

 

 

(同上)

 


(これは、またぞろ、なんという。……)


 絶句したのもむべなるかなだ。


 眼底、戊辰の役の会津藩士を彷彿とする。


 決して竜頭蛇尾には堕ちない。一行目の勢いを、一番最後の句点まできっちり保持してのけている。常軌を逸した胆力と、異様な精気のみなぎりにより、頭の先から尾っぽまで貫かれたる書であった。


 ほとんど時を同じゅうし、神戸市では七十五歳の老人が漢文仕立ての従軍願書を携えて、堂々役所に乗り込んでいる。彼のなりときたらもう、「撃剣柔道に鍛へたる筋骨逞ましく、坊主頭の大男にて一見五十七八歳を越へず」という風な、げに頼もし気であったとか。

 

 

(同上)

 


 尊皇攘夷の掛け声にサンザ沸かした青春の血が、差し迫った時勢に触れて再び骨を燃やしたか。これも一つの冷灰枯木再点火。江戸時代に人となった連中は、やはり根性が違うらしい。

 

 

 

 

 


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