穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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夢路紀行抄 ―浮気者―

 

 夢を見た。
 父親が死ぬ夢である。
 風邪をこじらせぽっくり逝ってしまったと電話口で知らされて、慌てて帰省してみれば、なんたることか私を出迎えてくれたのは、馴染み深いキジトラ柄の愛猫ではなく、すわ狼かと見紛わんばかりの精悍な顔つきをした柴犬だった。

 

 

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 驚いて母に訊ねると、なんでも父が亡くなる前に畑仕事の帰りに拾ってそのまま飼うことにしたのだと。
 一通りのことは仕込まれていると聞き、試しに掌を差し出すと、果たせるかなぽんと「お手」をしてくれた。


 するとこいつが親父の忘れ形見になるわけか、と肉球の感触を楽しみつつ思ったところで目が覚めた。


 まあ、誰かが死ぬ夢を見ると逆にそいつは長生きすると俗に云うし、きっと吉夢の類だろう。……愛猫には、浮気者と叱られそうだが。

 

 

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SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE Official Artworks

SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE Official Artworks

 

 

 

 


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共産主義者七変化

 

 1901年、日本最初の社会主義政党社会民主党幸徳秋水らの手によって組織され、当局から即座に禁止処分を食らった際の出来事だ。同じ社会主義者の某から、幸徳は奇妙な注意を受けた。


「君も頓馬なことをしたな。社会民主党などと名付ければ、禁止されることは初めから明らかだったではないか。何故に忠君愛国党と名付けなかったのだ」


 化けの皮をかぶって、当局が批難しにくいように擬装するべきだったというのである。


 戦術的には、某の意見こそ正当だろう。


 しかしながら「主義」を熱愛するあまり、ほとんど江戸時代鎖国体制下に於ける隠れキリシタンの殉教者が如き心理状態に至っている幸徳にとって、これほど不愉快な「忠告」はない。


 幸徳が某の言葉を冷厳と無視し、みずからの明け透けなやり口をついに曲げなかったことは、その後の彼の略歴を一瞥しただけでも十分理解できるだろう。

 


 某の戦術を全面的に取り入れた組織が出現したのは、大逆事件で幸徳が処刑されてから12年後の、1923年のことである。
 その組織の名を、大化新政協会といった。

 


 なんでもこの連中の主張に依れば、孝徳天皇大化の新政は、皇室を中心とする純然たる社会主義思想の実現であって、日本の根本的改造にはサンディカリズムもボルシェヴィズムも必要ない、ただこの大御心に「回帰」すればそれでよいと言うのである。


 山田上ノ山古墳――別名「うぐいすの陵」にお眠りあそばす孝徳帝も、さぞかし仰天なさったことに違いない。なんと、朕はそんなことをしていたのかと。

 

 

Yamada Uenoyama Kofun, haisho

Wikipediaより、山田上ノ山古墳) 

 


 更に彼らは一歩を進め、具体的政策として今度は桓武天皇を引き合いに出し、彼の在位中に発せられた「私に山林を占むるを禁ずるの勅」「貧富均済の勅」とを挙げている。


 要するに土地の国有化と、私有財産禁止を狙ったものに相違ない。なるほどうまく化かすものだ。アカの犬の群れの中にも、存外狐狸こりの類がちらほら交じっていたようである。
 

 

 

 

 


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「数え唄」撰集

 

 

 一にいづめられ
 二に睨められ
 三にさばかれ
 四に叱られて
 五にごきはぎ洗ひすすぎさせられて
 六にろくなもの被せられないで
 七に質屋にちょとはせさせて
 八にはづかれ
 九にくどかれて
 十にところをほったてられた

 


 青森県弘前に歌い継がれる数え唄。
津軽海峡冬景色」の影響だろうか、本州の最北端たる弘前の名を聞くとどうしても、鈍色の空の下、寄せては砕ける荒波に、荒涼たる大地がどこまでも続く寂しい場所とのイメージが私の想念界から拭えない。
 この唄は、その印象を更に強化するものであろう。

 

 

CapeOfTappi View

Wikipediaより、津軽海峡竜飛崎) 

 

 


 一つふくれたふくべ餅
 二つ火箸で焼いた餅
 三つ見事に飾餅
 四つよごれた小豆餅
 五つ医者どの薬餅
 六つ娘の配り餅
 七つ七草雑煮餅
 八つ屋敷の供餅
 九つ此の家の胡桃餅
 十に幸いなんば餅

 

 
 そこからいくらか南下した、秋田県仁井田村にて歌われていた唄である。
 長い長い冬ごもりのさ中にも、楽しみというのはあるものだ。

 

 

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 一つ日の本神代の昔
 二つ不思議にかの真鶴が
 三つ瑞穂を啄へ来て
 四つ世の中五穀の始め
 五つ磯部はその元ぞかし
 六つ昔の儀式のままを
 七つ鳴物謡ひに早乙女
 八つやあはあ、の聲打ち揃はして
 九つ此の御田を首尾よく植ゑる
 十で豊けき秋祈る哉


 一つ日蔭に藪鶯やぶうぐいす
 二つ麓に立返る雁
 三つ見るまに遠のく燕
 四つ夜明けに飛び来るからす
 五ついくひと啼く時鳥ほととぎす
 六つ向ふでほたたく水鶏くひな
 七つ名もなき稲葉の雀
 八つやたけや気も隼
 九つ木蔭にたたづむ寝鳥
 十で飛び来るかの諸鳥もろどり
 よりどりみどりに刺いてくりよとかんまへた

 


採鳥刺さいとりさしなる民俗芸能の唄。


 近年では沖縄に伝わる京太郎ちょんだらー鳥刺舞とぅいさしめーばかりが有名だが、かつては全国的に分布していた「舞い」であり、それだけに唄の種類も豊富であった。


 中でもこれは三重県に伝わるものであり、皇大神宮伊雑宮いざわのみや御田植祭おたうえまつりで舞い歌われていたものである。


 そういう意味では神道的な、半ば祝詞としての側面も持ち、口ずさめば清澄な気分に浸れるだろう。
 

 

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大人の伊勢神宮 - 幾度となく訪れたい、心の旅 -

大人の伊勢神宮 - 幾度となく訪れたい、心の旅 -

 

 


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英国新聞協会会員、楚人冠

 

 杉村楚人冠イギリス新聞界との関わりは深い。
 なにせこの男、イギリス新聞記者協会の在外会員という肩書まで持っているのだ。
 だから日本に居ながらも英国事情に巨細に通じ、彼の地のマスコミ界隈に於いてある種の廓清運動が始まった時も、その報せはちゃんと彼の耳に届いていた。


 提議したのは、『オブザーバー』紙のアーウィンという記者らしい。


 彼は近頃新聞紙の記事が個人のプライベートな領域に立ち入り過ぎるきらいがあると告発し、これが議会で問題視されたり、一般大衆からの突き上げを喰らうより先に、自分達新聞記者側で積極的に統制を図ってゆくべきだと発言した。


 予防的措置を講じよと言うわけである。


 以前触れた、下村海南の台湾自治推進論にも気脈を通じるものだろう。


 その「個人のプライベートな領域に立ち入り過ぎ」た特に著しい例として、彼は二つの事件を取り上げた。


 一つは、ナチスの台頭により身の危険を感じ取り、ドイツから脱出してイギリスに逃れていたアインシュタイン――彼の潜伏場所を暴き立て、無遠慮に会見を申しこもうとした記者があったことである。

 

 

Einstein1921 by F Schmutzer 2

Wikipediaより、アインシュタイン) 

 


 命を狙われ、神経過敏になっているであろう彼に対してなんということをするのか。


 更に言えば、その動きをナチの密偵に探知され、結果アインシュタインが死体になって転がる事態にでも到ったならば、いったいどう責任をとる心算だったのか、というのがアーウィン氏の糾弾したところであった。


 杞憂とは呼べまい。特にTBSビデオ問題によって坂本堤弁護士一家殺害事件を招いてしまった過去を持つ、我々日本国民としては。


 もう一つは、リットン卿――そう、国連の命によって満州事変や満州国を調査した、リットン調査団の彼である――が飛行機事故でその子息を亡くした際に、「相当名声のある某新聞が見舞の名義で記者を派して、その『意見』を求めしめた(『山中説法』75頁)件である。

 

 

Lytton Commission at railway

Wikipediaより、リットン調査団

 


 傷口に粗塩を塗り込む行為といっていい。

 


 子を失って哀に沈んでゐる一家の中へ、どんな意見を求めんとするのであるか、こんなことが度重なれば、今に元気のいいのが出て来て「おい、お前の倅が死んださうな、何か言ひたい事があるならいってくれ、成るべく簡単にな」などといふ奴が出て来ぬとも限らない(同上)

 


 アーウィンが慨嘆と共に吐き出したこの予測は、現代日本に於いて完璧に実現したことを、我々はまざまざと知ることが出来る。


 いや、ひょっとすると完璧以上かもしれない。アーウィンが予測したのはあくまで子を失った親に対する追い打ちだが、日本の大手マスメディアは平然と、親を失った子の心でも容赦なく抉ってのけるのだから。

 


「イギリスにも昔新聞記者が新聞記者である時代があった。それが二三年前から保険の勧誘員になった。今日では旅商人か呼売商人ホーカースになってゐる。これから先は何になるか分からない」(同上)

 


 こう皮肉って締めくくられたアーウィン氏の提議に対し、英国記者協会は満堂の拍手を送ったという。彼らの廓清運動はこのようにして始まった。


 しかしながら斯くの如きイギリスメディアも、1997年8月31日、結果的にといえどダイアナ妃を死に至らしめるというとんでもない不祥事を引き起こしている。
 これはもう、マスコミというものの避け難い体質と見るべきか。惨なるかな。

 

 

朝日新聞血風録 (文春文庫)

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夢路紀行抄 ―ドラッグストアのウィッチャーゲラルト―

 

 夢を見た。
『ウィッチャー3』の主人公、リヴィアのゲラルトが日本の市街でラグビー選手に化けていた吸血鬼と死闘を繰り広げる夢である。

 

 

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 やがて角を切り落とされた吸血鬼は――どういうわけかこの吸血鬼には額から、角が一本、それも瘤だらけで血管の浮き出た紫色の異形の角が突き出ていた――それまでの傲慢な振る舞いから一転、黒い靄に姿を変えて逃走を開始。

 ゲラルトはゲラルトで馬を呼び寄せ、それを追った。


 そうしてたどり着いたのがドラッグストア。騎乗したまま店内に突っ込んだゲラルトは、唖然とする客や店員を歯牙にもかけず、巧みな手綱さばきで棚や商品の合間を縫い、一つたりとて崩さなかった。


 再び店外に飛び出すと、そこはドラッグストアの駐車場。ちょうど出て行こうとしているトラクターがあって、その荷台にはどういうわけかドラえもん一行が乗っており、例のオープニング曲を合唱していた。


 そのあたりで目が覚めた。棚の隅で埃を被っている『ウィッチャー3』がたまには起動してくれと、私に抗議しにでも来たのだろうか?


 本作をクリアしてから随分経つ。そろそろ記憶も薄れてきた。また最初からやり直すのも悪くない。

 

 

The Witcher 3: Wild Hunt (Original Game Soundtrack)

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日露戦争戦死者第一号・伊藤博文 ―後編・下―

 

 やや話は脇道に逸れるが、この杉山の観測とよく似たモノを抱いていた人物を思い出したので触れておきたい。


「日本資本主義の父」、渋沢栄一その人である。

 

 

Eiichi Shibusawa

Wikipediaより、渋沢栄一) 

 


 上記の異名をとるだけあって、渋沢は大日本帝国の資本主義的能力を極めて正確に看破していた。すなわち、軍隊が如何に精強で、陸に海にと連戦連勝を続けようとも、この国は商工業国としてまだまだ半人前に過ぎないと。


 よって、軍が如何に力戦し、大陸からロシアの影響を拭い去ることが出来たとしても、結局のところ日本はそこから大した利益を引き出せず、まごまごする間に資本主義国としては遥かに古株な他の列強が割り込んできて、彼らが思う存分甘い汁を吸い上げるのを、指を咥えて後ろから眺める以外になくなるのでは? ――と。


 近視眼的にロシアに勝つことのみを考えず、勝った後のことまで考慮した点、渋沢と杉山は共通している。


 ゆえに渋沢は、奉天会戦の砲煙もまだ新しい明治三十八年三月二十八日銀行倶楽部晩餐会の席上に於いて、次のように演説し、同業者に喝を入れている。

 


 此の戦争は遂に平和は克復する、平和が克復した後が我々商工業者の真正の責務である。それこそ日本の奮励担任すべきものである。其の担任すべきものに於て、若し前に申す如く我々の力が充分でないと考へますると、我々は是より大いに努力せねばならぬと云ふことを自ら思ふのでござりまする。(『渋沢男爵 実業公演 坤』3頁)

 


 資本主義国としての実力を涵養し、押し寄せて来るであろう列強勢力に真っ向から立ち向かえるだけの国体を作る。


 渋沢の姿勢はどこまでも王道に沿うものだ。


 端から「戦後」を見据えて立ち回ったのは杉山も同じ。だが経済人でない杉山は、その代わり政治的に列強――特に英国――が易々と手をつけられない構造を仕上げる方に苦心した。

 


 その為にも、日英同盟は絶対に英国を下手に廻して結ばねばならない。

 


 生半なまなかなやりくちではとてもかなわぬこの注文を仕遂げるべく、持ち前の脳力と悪知恵の限りを結集し、とうとうこれしかないと桂・児玉に献策したのが、この稿の表題にもした、


伊藤博文公をして、日露戦争の戦死者第一号になっていただく」


 という代物だった。

 


「かねてご存知の通り、伊藤公は親露主義です。ロシアと戦うなどは以ての外だ、ロシアとは手を握って、共に東洋の平和を維持して行く方針を取らなければならぬ、それには先づ日露同盟を結ぶ必要がある、といふのが伊藤公の外交持論です」
「それは私達もかねがね聞かされて居る所だ、それで、伊藤公に何をして貰はうといふのか」
「死を決して露都へ乗込んで戴くのです。俗に腹を押せば屁が出ると申します。親露主義の伊藤公、日本に於て、上御一人からも、下国民からも絶大の信頼を受けてゐる国家的有用の一大人物伊藤公、これが露都訪問と出かけたら、世界の眼はこれを何と見るで御座いませうか。此処です、私は露西亜を以て腹とし、日英攻守同盟を以て屁とします。比喩は甚だ不吉らしいが、前申上げた、腹を押せば屁が出るの俗諺に当てはめて申上げるのです。その腹であるところのロシアを、伊藤公といふ日本の大人物に押して戴いて、日英攻守同盟といふ屁を押し出さうといふ案であります。伊藤公に於かれては、固より親露主義で居られるのだから、露都訪問をなさるでありませうが、併し、日露現下の関係でありますから、どんな危険が突発するかも知れません。決死的覚悟でない限り露都訪問は出来ないのですが、伊藤公にそれだけの大決心を促して戴くだけの覚悟が、先づ閣下達に御座いますか。(後略)

 


 このような遣り取りが内々であったと、『熱血秘史 戦記名著集9巻』、514頁にて杉山は語る。


 このとき杉山が提案した構図は、西郷隆盛を韓都に送り、その地で韓人に殺されることによって国内世論を沸騰させ、帥を起こす口実とし、一挙に鶏林八道を攻め上るという、明治初頭に持ち上がったあの計画――征韓論を、どこか彷彿とさせるものである。

 

 

SaigoTakamori1332

Wikipediaより、西郷隆盛像) 

 


 当時さんざん暗躍し、結果的には征韓論を叩き潰した主犯格たる博文が、三十年後の今日になって逆に西郷の位置に着かされるとはなんたる皮肉か。

 


「先づ、話は大抵分かった、だから、陽に伊藤公の親露主義を謳歌して、露都行きを勧めよと、斯う云ふのだらう」
「先づ、さうです。併し陽に謳歌と申しても、伊藤公を欺くといふ心ではありません。公の露都訪問を英国が雲煙過眼視して――そんなことは断じてないことを保証しますけれど――幸ひにして公の訪問に依って、日露同盟が実現すれば、これに越したことはないのですから、言はば両道をかけた策です(後略)(同上、515頁)

 


 桂太郎内閣に於いて、日露協商と日英同盟の交渉が並行的に行われるという変態的な外交姿勢はこうして生まれた。


 もっとも杉山茂丸は、ロシアが日本と同盟して従来の飽くなき南下衝動を棄てるなどということは、「シベリアが急に熱帯国となることがあっても、断じてない(同上)と冷厳に見切ってもいたのだが。

 


 果たしてイギリスは反応した。それはもう過敏なまでに反応した。

 


 彼らは彼らで、清国・ペルシャに於ける権益問題交渉で既にロシアと決裂している。


 ――ペルシャが侵されれば、次はインドが危うくなる。


 英国人がこう考えるのは、満洲を侵されれば次は朝鮮だとする日本人の思考法に酷似している。疑いを差し挟む余地のない、自明の理といっていい。


 当然、見過ごしていい事態でなかった。


 日本を使嗾してロシアに当らせるべきであろう。
 その為に餌を与える必要があるにしても、あまり過剰なのは好ましくない。特に同盟ともなると、従来の伝統的な外交姿勢――栄光ある孤立をかなぐり棄てる行為に他ならず、内外に及ぼす影響を考えると、それはそれで無視できないものがある。


 やるにしても、日本から泣きついて懇願してきたところを、いたたまれず救ってやったという格好を整えたかった。


 ところが、伊藤博文である。

 

 

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 元勲どもの長老株で、根っからの親露主義者のこの男が、あろうことかこの時期に、日本を離れて露都を訪問するという。
 この報せに、果たして英国外務省は震撼した。そのことは明治三十四年十一月二十日、英国駐箚特命全権公使林董に、外務大臣ランズダウンが示した態度をとってみてもわかる。


 林の報告によるとランズダウンはのっけから、「伊藤侯露国行の意志に猜疑を抱ける模様」を示して臨み、もし彼が訪問先で何らかの条約を結ぶ気であれば、それはイギリス政府として「非常に憤怒」すべきことであると威圧を加えた。

 

 

Marquess of Lansdowne

Wikipediaより、ランズダウン) 

 


 驚愕した林公使は大急ぎでパリ滞在中の伊藤に向かい、「露国に入るのは英国政府が疑惑をはさむ」との電報を送り、その足どりを停止させようとしたものの、努力もむなしく十一月二十五日、伊藤はあっさりペテルブルグに入ってしまう。


 林としては、生きた心地がしなかったろう。


 しかしながら伊藤のこの強硬姿勢は、同時にランズダウンに対しても並々ならぬ影響を与えた。ああまでしても伊藤が進路を曲げなかった以上、これはもう容易なことでは日本を振り向かせることは不可能であると踏んだのである。


 ここに至り、ついに英国は腹を括った。悪辣な高利貸しさながらに、契約書に罠を仕掛けることもせず、日本に対して対等な軍事同盟を提案したのだ。


 もっともランズダウン卿は、後にささやかな抵抗をした。それは彼が日英同盟締結の報告を議会にした際、


 ――われらは同盟を日本に許せり。


 と発言したことである。


 日本と結んだ・・・、ではなく日本に許せり・・・。あくまで上から目線を崩していない。
 このプライドの高さは流石としか言い様がなく、もはやいっそ小気味よくさえ感ずるほどだ。


 しかしながら誇り高きかの英国が、その伝統たる「栄光ある孤立」を棄ててまで同盟を、しかも有色人種を相手に結んだという事実が齎す衝撃は、到底この程度の小手先の業で誤魔化しきれるものではなかった。

 

 


 杉山茂丸、一世一代の大陰謀はついに成った。


 同時に杉山の胸に去来したのは、


 ――たとえ無事に帰って来れても、伊藤公はもう政治的には死骸と化したも同然だろう。


 という、切なさのにじんだ罪悪感に他ならなかった。


 杉山の聞き及んだところに依れば、日英同盟の成立を、伊藤は露都ペテルブルグで、しかも交渉相手の露国蔵相ヴィッテの口から知らされた

 

 

Sergei Yulyevich Witte 1905

 (Wikipediaより、セルゲイ・ヴィッテ)

 


 前述の通り十一月二十五日に露都へ入った博文は、その三日後、二十八日にニコライ二世に拝謁し、蔵相ヴィッテ、外相ラムズドルフらと、幾日にも亘って会談している。


 その感触からロシアが存外、日本と手を組むことに好意的であると看取して、伊藤は前途に大いなる希望を見出していた。と同時に、せっかく上手く運んでいる現状に水を差されてはかなわぬと、本国に対して「英国の誘いにうか・・ととびつき、攻守同盟の如き重大問題を軽々に決定せぬように」と訓戒する旨、電報に打たせて送りつけさえしているのだ。


「自分たち外遊組が帰るまで、留守内閣は国家の大事を決してはならない」


 と約束させて大久保利通を筆頭に、数多の政府要人が出かけていった、征韓論騒ぎのときの情景といよいよかぶる。
 明治初頭に於いては西郷が、


 ――我々を子供扱いするか。


 と激怒し、征韓論という「国家の大事」を勝手に決しようとした。


 今回もまた、同じことが起きたと言える。伊藤がくだんの電報を打たせたのが十二月六日、しかしながらその翌日の十二月七日に開かれた元老会議で、全会一致のもと本国政府は日英同盟に同意してしまったのである。


 一連の経緯を、あろうことか交渉相手の露国側から知らされて、伊藤はついに全貌が見えた。


 ――このためか。


 すべては日英同盟締結のため。体よくダシに使われた己の姿を、否が応でも自覚せざるを得なかった。
 生涯に亘ってこれほどの煮え湯を呑まされたことはかつてなく、杉山が


 ――もはや死骸同然。


 とみたのもまったく無理からぬことであったろう。並大抵の政治家ならば気落ちして、底の底まで突っ伏している。


 ところが伊藤博文が、政治家としての底知れなさを発揮するのはここからだった。彼はまったく政治的には、不死の生命力を持っていた。


 もはや交渉もへったくれもなくなったロシアを去った博文は、その後ベルリンを経てロンドンに向かう。そして彼の地で歓待に出てきた外相に対し、滴るような微笑を浮かべ、日英同盟締結を祝し、


 ――両国の未来にとって、これほどめでたいことはない。


 と、どう見ても心の底からの賛辞を送ってのけたのである。


「英国が古来の外交方針を一変して、我と結ばんとする意志が了解し難い。何か別に大きな困難事でもあって、そこから逃れるべく我を利用せんと企んでいるのではあるまいか」


 と、誰よりも強く日英同盟に疑義を呈し、筋金入りの親露主義者と思われていたこの男が、だ。


 あざやかにもほどがあるこの変貌ぶりを耳にして、杉山は今度こそ伊藤博文人間力を思い知り、その強靭さに胴震いするほどの感動を覚えた。


 事実、伊藤はこれで政治的に死ぬどころか、自分を嵌めた桂への復讐を胸に秘め、帰国後はときに元老としての威を用い、またときに政友会総裁としての顔で以って、あらゆる方面から内閣へ圧力をかけることに尽力し、桂をして辞職一歩手前までその神経を疲弊させるに至るのである。

 


 元老の大威力を以て桂に臨んで行くかと思ふと、忽ちにして政友会総裁として打つかって行くといふ有様で、桂としては、元老としてその教へに聴従すべきか、政党総裁いや反対党総裁としてこれを敵とすべきか、全く迷はざるを得なかった。(同上、501頁)

 

 


 日本をして五大強国の一角へと押し上げた大戦争。そこへ到る道程もまた、尋常一様なものでない、激烈極まる政争の数々に満ちていた。


 そしてこの「戦場」にも、確かに勇士は存在したのだ。そのことについて、私は疑いを抱かない。

 

 

 

 

 


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日露戦争戦死者第一号・伊藤博文 ―後編・上―

 

 長州人で「桂」と聞くとどうしても、桂小五郎――木戸孝允――の名前の方がまず浮かぶ。

 

 

Takayoshi Kido suit

Wikipediaより、木戸孝允) 

 

 

 晦渋な顔をした男である。
 このイメージが先行するあまり、ともすればもう一人の「桂」の方とごっちゃになって、太郎・・小五郎・・・の血縁だとか、そういう血筋に支えられた強力な地盤があったからこそ桂園時代なんてものを実現できたんだろうとか、そんな風に思い込んでいる人は存外多い。


 が、事実に於いて桂小五郎桂太郎、両者の系図はまるで別なものである。


 共に長州萩の生まれであり、歴とした上士の家柄ではあるものの、前者が藩医和田家のもとから大組士桂家に養子入りしたのに対し、後者は馬廻役桂與一右衛門の嫡男であって、筋目の正しさで言うならば、むしろ太郎の方が優れていよう。
 幼名は、壽熊ひさぐまといった。

 

 

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 一見温和な風貌をしていながら、万延元年、風雲急を告げる長州に於いて新式の西洋操練が実施されるという噂を聞きつけるや、居ても立ってもいられなくなり、弱冠十四歳の身空でありながらこれに加わりたいと熱烈に願い出たあたり、温和さの中に獰猛さを包んでいること、正に熊の如しである。


 もっともこの請願は「若過ぎる」という理由で却下され、やむなく太鼓の打ち方を習うだけに止まったが。

 


 ――その桂太郎が。

 


 日露戦争を目論む例の結社に加わったのは、彼に大命が降りる寸前。一ヶ月に及ぶ内閣の空白期の末尾、同じ陸軍所属の児玉源太郎からの度重なる熱烈な呼びかけに応えてである。

 

 

Gentaro Kodama 2

Wikipediaより、児玉源太郎) 

 


 児玉は児玉で、大日本帝国の未来のためにはロシアと戦争をすることが絶対に必要だと確信している男であった。杉山の見るところ、児玉源太郎という身長わずか155cmに過ぎないこの小男は、しかし日露戦争を実現するために生れて来てゐるのかと思はれるほど熱心な日露戦争論者(『熱血秘史 戦記名著集9巻』500頁)に他ならず、その矮躯に詰め込まれた圧倒的熱量に、時に杉山ですらも気圧されるほどであったという。


 それだけに児玉源太郎は、明治三十四年六月二日に誕生したこの桂太郎内閣に、期待の総てを懸けていた。


 といって、杉山も児玉も、まさかこの「新入り」が次の総理大臣と見抜いて勧誘を行ったわけではない。結果があまりにも出来過ぎていてついそう勘繰りたくなるが、誓って全くの偶然である。

 


 政局の変転推移といふやうな、大勢の力で動いて行くことは、一人や二人の、どれほど頭がすぐれた者があっても、その考へ通りには、決して成るものではない。世間にはよく策士だとか何だとかいふ者があって、彼等は自分一人で芝居の筋書きを書いて、その筋書通りに、多くの政治家を人形として動かしてゐるやうな顔をしたり、甚だしきは之を吹聴したりしてゐるが、嗤ふべくあはれむべき誇大妄想狂である。それは無論、策士も策謀も必要ではあらうけれど、決して万事がその策動に順応して来るものではない。あて・・事と何とやらは、向ふから外れて来るものと、昔から相場がきまってゐるではないか。(同上、493頁)

 


 このあたり、伊藤博文あて・・にしてあれこれ策動した挙句、その伊藤本人から盛大な梯子外しを喰らった杉山茂丸だけあって、言説に説得力が満ち満ちている。


 杉山の謀略論、なおも続く。

 


 茲に於てか、偶然の機会といふやうな事が、時に思はざる奇功を顕はすのである。特に日露戦争前の政局の変動には、この偶然の機会といふ奴が、屡々強大な力を顕したことは、少しく政変史に注意する者の見逃さない所である。(同上)

 


 しかし真に優れた策士と云うのは突然降って湧くようにして現れたその「偶」を、あたかも最初から自分の計画通りでございとばかりの顔をして、巧みに且つさりげなく利用してのける手腕を有した者だろう。


 果たして杉山茂丸は、この「偶」を最大限に利用した。
 桂太郎内閣の安定に、彼はあらゆる骨折りを惜しまなかった。
 甲斐あって着々と戦争への準備は進み、そしてついに局面は、最大の難関を目前に控えることとなる。


 いざ日露の間に風雲急を告げた秋、決して黙っているはずのない、列強中最大の利害関係を東洋に有する国への対処――。


 すなわち、大英帝国との交渉だった。

 

 

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 東洋で事を起こせば英国が嘴を突っ込んでくる。連中は決して、局外中立なぞ保たない。


 これは明治期に於いて、ほとんど動かすべからざる、一つの定理の如き観さえあった。


 問題となるのは、その嘴の突き入れられる角度・・である。日本に好意的にか、それともロシアに好意的にか。前者ならいいが、後者となればその瞬間に大日本帝国の敗北が決定しよう。


 これほど重要な沙汰事を、丁半博奕さながらに運頼みにする心算は要路の誰もが持ち合わせてなどいなかった。杉丸にしても同様である。どうあっても日英間で攻守同盟を締結しておく必要がある、それも可及的速やかに。


 ――ところが、これがそもそも大問題である。


 と、杉山は言う。
 なにしろ相手は英国だ。


 日本からどうか同盟国になってくださいませお願いしますイギリス様と、哀願するかのようなそんな調子で頼み込めば、あの腹黒紳士のことである、たちどころに足元を見抜き、日本が破産するかしないかギリギリの、とんでもなく高価な代償を条件としてふっかけて来ること必定である。


 事実、日本は英国との同盟を、哀願したくなるほど希っている。


 砂漠で渇えた者が水を求める心情に、勝るとも劣らない必死さである。
 しかしながらそのことは、断じて見抜かれるわけにはいかなかった。おくびにも出さず振る舞って、あくまで英国をして自発的に同盟の儀を提案させるべく仕向けなければならない。さもなくば、

 


 多くの犠牲を拂ってロシアの勢力を東洋から駆逐しても、お代りに英国を連れて来るやうなものである。前門の虎を追うて、後門に狼の襲来を受けては何にもならない。まさか英国はロシアほどの横暴は極めないであらうけれど、日本が条件で縛られれば、実質に於いては同じことになる。(同上、512頁)

 


 だが、果たしてそれが可能であろうか?
 相手は舌が何枚あるか到底知れたものではない、老獪極まるイギリスだ。
 メッテルニヒの義理の祖父、オーストリアの名外交官たるカウニッツをして、


「かくの如き不可思議なる政府相手には、実に何事をも信頼する能わず」


 と言わしめた、筋金入りの国である。
 難易度は文句なしに最高峰と言っていい。

 

 

 

 

 


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