穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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遊廓に 乳飲み児連れて 登楼る馬鹿

 

 女房に先立たれてから後のこと。


 文人・武野藤介は彼女の遺した乳飲み児をシッカと胸に抱きかかえ、遊里にあそぶを常とした。


 誤字ではない。


 遊里である。

 

 

(島原大門)

 


 金を払って美人とたわむれる場所だ。


 そこへ赤子連れで行く。


「こうすると芸妓おんなにモテるんだ」


 それが理由の全部であった。


 人間のクズといっていい。


 とんだ子連れ狼だった。


 更に輪をかけて度し難いのは、武野が己の行状を後ろめたく思うどころか、こんな巧みな遣り口を発見したこの俺は、なんて頭がいいのだろうか――と、むしろ自慢げに吹聴して廻っていたことである。

 


芸妓はその職業的必要から女性としての母性愛を圧殺してゐる、だから赤ん坊を連れた男などに会ふと、俄然その母性愛の蘇へること急湍の如く、つまりは赤ん坊の父であるボクがモテる結果になるのだよ

 


 ついには衆の面前で、理論の闡明までやった。

 

 

 


 ちょっとした心理学者気取りであった。


 現代ならば確実に顰蹙ものだろう。


 大炎上して火達磨となり、二度と世間の表面に浮かび上がるを許されないに違いない。


 だがしかし、大正・昭和の文学者らの倫理水準からすれば、こんなのは決して珍しくない、茶を飲みながら気軽にやれる日常会話の域を出ぬ。


「まったく人心は堕落した」


 明治の昔が懐かしい、あの頃はまだいくばくかマシな空気が吸えていた――と、当時にあってボヤいているのは江見水蔭


 武野より、ほぼ二十年ほど先んじて生を享けた人物である。筆を執るのも、従ってそれだけ早かった。大衆作家の草分けとして今ではもっぱら名が高い。晩年物した『明治文壇秘話』に於いて江見は云う、

 


「…素行上の問題で明治文壇の権威山田美妙も遂に社会から葬られてしまったが、併し今日の所謂新しい文士達から見ればその位の事は何んでもない。或る有名な文士は人の細君と一緒に逃げてブランコ往生を遂げて蛆がわいてしまった、又ある有名な某大家は自分の近親を孕ませて、孕せた事実を告白的に小説に書いて、それが非常に歓迎された、最近では自分の細君を友達に譲り渡して連名で披露文を送った人もある、斯う云ふ方面から見たならば美妙は可哀そうだ、少しも葬られる所はなかった、今日では文士がさう云ふ事をしても葬られるどころではない、それがエライと礼讃されるんだからどうも恐れ入ってしまふ」

 


 と。


 恋愛の神聖が笑わせる。

 

 

Suiin Emi

Wikipediaより、江見水蔭

 


 作品の出来と作家自身の人品は、やはり切り離して考えるべきであるらしい。大震災の焼け跡に立小便して快哉を叫んでいたという、生田春月が嘗て伝えた青年詩家の逸聞も、これでますます信憑性が高まるというものだった。やるよ、確かに、あの時代の連中ならば、その程度――…。

 

 

 

 

 


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