「未亡人が喪服を着ている時ほど色っぽいものはありません」――マルキ・ド・サドはよくよく真理を衝いている。獣欲の虜となった野郎とは、ことほど左様に見境のない生き物だ。修道服でも喪服でも、彼らの眼にはただの単なるコスチューム、より一層の興奮を煽り立てる為だけの小道具でしかないだろう。
(フリーゲーム『イミゴト』より)
むかし、成田勝郎という人がいた。
少年審判所――今でいう家庭裁判所の如き機関に長らく奉職した彼は、経験に徴してある傾向を見つけだす。
すなわち「どんな家庭環境が、不良少年を生み出しやすいか?」――子供がグレる条件とは
「私の取り扱った不良少年少女の中には、後家さんの子供が相当にあって、殆どその全部が後家さんの不品行から悪くなってゐるといってよいのです。表面は立派に後家を通してゐるやうに見せかけて裏面には必ず男性がゐるといふのがキマリです、男ですと比較的率直に白状する事も、女は却々きいても申しません、殊に性的関係となりますと益々極秘にするといった傾向がありますので、悪いとは知りながらどうしても子供を追及することゝなりますが、その結果はいつも『時々ヲジさんが来てお小遣ひをくれるから戸外で遊んで来い』といったやうなことになるのです」
戦前昭和の早期に於いてシングルマザーの困難を論じたものと見てもよい。
そうした意味でも、割と貴重な証言だろう。
(同上)
「後家さんの子はお父さんがないだけでも肩身の狭い思ひをしてゐるのですから、ホントからいったら広い世界に母子だけといった関係から緊密に結びつくのが当然なのですが、往々にして母子仲の悪いのはいつも『ヲジさん』と称する父親でも親戚でもない男性が侵入してゐるためです、子供から見たら天にも地にも一人限りの頼りにする母親を横取りされてしまふのですから、その『ヲジさん』に極端な憎悪を感ずるのは余りにも当り前です、延いては自分を愛してくれない母親にさへ憎悪を感ずるやうになり、世を呪って不良の群に投ずる結果となるのです」
なにやら手塚治虫の漫画の中で目にしたような光景だ。
『アポロの歌』の主人公の境遇と、少し被るところがないか。
エディプス・コンプレックスを拗らせてブラック・ジャックを殺そうとした子供も居たし、第一そのブラック・ジャックにしてからが、父親が愛人と雲隠れして女手ひとつで育てられた子であろう。
漫画の神様は人情の機微を網羅している。
久米田が脱帽するわけだ。
「それ故私の考へでは、後家を通すといふことが一見立派なことのやうに見えて実は恐るべき害毒を流してゐるとしか思へないのです、それよりは寧ろ再婚して、ホントの父親でないまでも子供に『お父さん』と呼ばれるものゝあった方が『父なし子』といはれないで子供も気強いし、母親の性生活からいってもよいと思ひます」
……しかしまあ、こういう話はどうしても、『ママにあいたい』――絶対にフリーゲームでしかやれないだろう超問題作を彷彿として暗黒な気分にさせられる。
(このへんはマジで血の気が引いた)
他意なく両親、ひいては祖霊に、感謝可能な境遇に生を享けたる我と我が身の幸運を、今一度感謝したい心地であった。
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