穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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白球今昔物語


「ナイスプレーだ、いや本当によくやった、俺の娘をあいつにやっても構わねえ」


 試合が白熱してくると、応援席から感極まったようにして叫んでやまない奴がいた。

 

 

 


 彼こそは文士・佐々木味津三。熱狂的な野球ファン。特に母校の明大チームを贔屓にすること一入ひとしおで、定期的に開催ひらかれる大学リーグ戦にては、何を措いても必ず駆けつけ、毎回々々喉をぶっ壊す勢いの猛烈的応援を捧げて惜しまなかったとか。


 その際の「決まり文句」が要するに、冒頭既に示したところの


 ──あいつに俺の娘をやるぞ。


 であったのだ。


(なに言ってやがる、子供なんて、一人も持たないくせをして)


 と、彼と親しい所謂文士仲間らは、拳固振り上げ眼を血走らせて怒号する佐々木を横目で窺いながら、内心密かにおかしがるを常とした。


 もしも佐々木の放言がひとつ残らず実現されていたならば、監督含めて明大チームの全員が、とっくの昔に彼の娘婿むすこになっていたに違いない。……

 

 

草創期の野球部(1911年)
(Wikipediaより、明治大学野球部)

 


 開国以来、実に多くのスポーツがこの島国に流れ込んだが、いったいにして野球ほど日本人の趣味嗜好へとクリティカルした競技もまたと無いだろう。


 ところで、だ。日本野球の草分けと神保町の間には、実は意外な接点がある。


 本当に一瞬間だけ触れた程度の微かさでしかないのだが、それでも繋がりは繋がりである。


 雑誌『野球界』の中核面子の一人であった横井春野が、そのあたりにつき、特に詳しい。

 


「中程度の野球部では部費の大部分は、ボールに費消されてしまふのだ。早慶明等の野球部では一ヶ年七八千円のボールを使ふさうだが、中学チームでも平均して千円内外は使ふと思ふ。昔はボールの糸が破れると三味線糸で修理したもんだが、今では張替をする。

 

 

 


 野球技が日本へ渡来した時は、日本中に一軒もボールを製造するものはなかった。木戸孝正侯が米国から持ってきたボールが破れだした時、選手一同ボールを解剖してみた、羅紗のきれ・・が四五枚あり、あとに毛糸があり中心は丸いゴム球であることが発見された。ソコで、一同は古いゴム靴と古い靴下を持って神田神保町の靴屋へゆきボール製造を命じた。これが日本でつくられた最初のボールであった。当時を追想するとマルで夢のやうだ」

 


 今年もまた、悲喜こもごもの夏が来る。


 甲子園球場を中心に、悲鳴と歓声、とりどり爆ぜる極彩色の灼熱が──。

 

 

 

 

 


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