知人の宅の玄関にとてもみごとな蘭の墨絵が掛かっているのを発見し、しばしの間、眺め続けた。
視線釘付け、惚れ惚れしたといっていい。
さぞや名のある支那の画人の作なのだろうと推察し、あとで由来を
「とんでもない、あれは山縣有朋公の筆ですよ」
意外や意外、欠片も想像していなかった男の名前が飛び出して、精神に異常な打撃を受けた。それこそまるで月がいきなり燃え上がり、夜天を焦がす火の玉と化し、軌道を外れて

(『ARMORED CORE VI FIRES OF RUBICON』より)
武者小路実篤の体験したことである。
従来彼は山縣に、決して好意的でない。むしろ真逆だ。妖怪めいた胡乱な輩と認識し、得体の知れない不気味さを、軍部に対する反撥と共に抱いていたものだった。
そういう「山縣嫌い」の一人であった実篤が、多少なりとも彼の仁を異なった眼で見はじめたのは、実にこれがきっかけと云う。
「山縣と云ふ奴は嫌ひだったが、画を見たら好きになった。志賀がいつか庭を見て感心してゐたことを思ひ出した」
上がすなわち、本人の談。
人間とはなんと他愛のない生き物か──と、呆れをもよおすべきなのか、それとも「芸は身を助く」の実例と逢えた幸運に無邪気に喜ぶべきなのか。
静かに自己を内観すると、どうも三・七で後者が強い。
これはおそらく筆者にも類似の体験がある所為だ。私もかつて久坂玄瑞──奇しくも山縣有朋同様、長州系維新志士──が、
桜植ゑたり戦さをしたり
これぞ誠の日本武士
フランクとすらいっていい、斯様な歌を詠んでいたと知ったとき、それまで「激徒」の二文字で終始していた印象が、さも鮮やかに塗り替えられる瞬間を味わったがゆえにこそ。
武者小路実篤の心理変化に、多少なりとも共感可能なのだろう。
趣味は思わぬ縁をたどりて人に利福を連れてくる。
人間、いろいろ

自分の嫌ってゐる人間が、自分の讃美してゐる行為に出たとき、その人間が好きになるか、その行為が嫌ひになるか、どちらかである。そしてそれによって、そのどちらの感情が強かったかが知られる。
──生田春月
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