少し、剣術の話をしよう。
山岡鉄舟の開いた流派は無刀流を称しつつ、鍛錬にも試合にも、実は竹刀を利用している。
「無刀」なのに。
「刀無き」流派のはずなのに。
──看板に偽りありではないのかね。
この点につき不審を持った者がいて、ふとした機会に、無遠慮にも尋ねたそうだ。
訊かれた相手は、鉄舟ではない。鉄舟はとうに死んでいる。開祖が世を去り幾星霜を経て後の、昭和の御代のとある日に、名もなき一人の門下に対しぶつけられた問いだった。
しかし、さりとて、彼の呈した回答たるや尋常ならざる凄味を帯びて。──俗人どもの無理解に堪忍袋の緒を切らし、鉄舟の霊が黄泉を出奔、一時的に憑依したかと疑念を持ちたくなるほどに、当該流派の真髄に接近したるモノだった。
「無刀流といふのは刀を用ゐぬといふ意味ではない。刀の助けを借りないでも敵を破ることが出来るまでに、自分の力を養はなければならぬといふことだ。刀のお蔭で勝つのではない。自分の力で刀を使って勝つのだ。刀が主ではない、自分が主で刀は従である。手に刀を執って居るが、殆ど刀を執って居ることを忘れて居るのだ。自分の腕で勝つのだ。イヤ自分といふものゝ全身で勝つのだ。是れだけの覚悟であって初めて刀といふものが役に立つわけである。刀のお蔭で勝たうといふやうな卑怯な心では、本当に刀を揮ふことの出来るものではない。刀は死物であるけれども、自分が之に生命を与へるから、刀が活きて働くのだ」

(『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』より)
何につけても主客顛倒は目に余る。
道具に使われてなるものかという烈火の如きこの気概、蓋し嘉するべきだろう。
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