何故ってくだんの老政治家が、話術の達者であったから。
老
外岡松五郎と名乗るこの醤油屋の顔役は、人の原始の根源的な欲求として食欲・性欲・睡眠欲に加えるに、「話」欲──声を用いて互いの意思を通わせ合いたい欲求が厳然として存在すると、そのように信じていたらしい。
それゆえ曰く「どんな野蛮人でも文字はなくとも話だけは有ってをる」と、「無言の業といふものは社会生活をしてをる人間には一つのつらひ刑罰」なのだと、これら認識を踏まえた上で更なる論理展開を、
「かうした人間特有の本能ともいふべき『話』の中で何が最も基本的かといふとそれは対話です。君と僕、お前と俺と云ふて相対した二人の間の受渡しといふことが基本的のものだと云ふ事です。世の中に話して分らぬことはない。話せば必ず判るべきものだ。話して判らないと言ふのは話すことと話す人の心に思ってをることが違ふからだ。本当に思ってをることならば話せばきっとわかるに相違ない。一日で話せないでも二日話せばわかる。今日は判らせ得ないでも明日話せば必ず判ると云ふ事だと思ふ」
これこの通り、勇猛果敢にやってのけたワケだった。

(外岡松五郎)
いやはや大したポジティブ精神、未来志向ではないか。
なんだか一種、ネゴシエーターの教本でも読んでいるような錯覚にすら襲われる。
こまごまとしたテクニックを論ずる以前の、骨格たるべき理念として上等だ。序文にでも採用したら結構効果があるんじゃないか。そんな構想がふとよぎる、熱と気迫の充実ぶりであったろう。
外岡松五郎の語り、更に進むといよいよ冒頭に掲げたる、犬養毅の人物評までぶち当たる。
肝心要のその部分に曰くして、
「五・一五事件の時に海軍の将校が犬養さんを襲った時に、犬養首相は『君達、静かにし玉へ、話せば判るぢゃないか』と言ったさうだが、あの人は天下の話の名人、悪く言へば狸親爺だ、此奴に掴まって話されたら折角の意気が挫けるかも知れん。『問答無用』といふことでパチンとやったのだと云ふ事です。人間話せば判るといふ境地は非常に面白いと思ひます。吾々が話をする場合に其位な気持は有ってよいと思ひます」
蓋しアッパレなこの意気よ。
老舗の
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