日下義雄は生前よりも、死後に周囲をやきもきさせた。
なにしろ彼が死んだのは大正十二年なのに、その遺言状が作成された日付ときたら明治四十三年なのだ。
(Wikipediaより、日下義雄)
おそらく彼の見立てでは、自分はもっと早めにくたばる算段だったに違いない。
それがどうした数理の狂いか、十四年もズレてしまった。おまけにその間、遺言状の存在をまるきり忘却したかの如く、日下はそれに手を触れようとはしなかった。一言一句の訂正も、ついに行わなんだのだ。十四年を経るうちに、資産も家庭環境も大きく変化していたにも拘らず──。
これがゆえ、日下と生前親しくしていた人々は、遺言状の内容を現実に適応させるため、さんざんっぱら奔走せねばならない事態に見舞われた。始末をつけた面子には、渋沢栄一、牧野伸顕、佐々木勇之助とかいった「有名人」も含まれる。
──遺言状はつねに四囲の事情のうつり変りに適応して時々加除訂正を必要とする。
との見識を下村海南がもったのは、まさにそうした苦心惨憺の折衝を、間近で見ていたかららしい。

あまりに早く自分の死期を見積り過ぎた人物に、他に堀口大学がいる。
肺結核を患っていたのが主な事情で。──青年時代の堀口は、
「自分はきっと、否、間違いなく、三十歳で死ぬだろう」
と、やけにキリのいい諦観にどっぷり浸かっていたそうな。
彼にとってそのことは、もはや泣こうが喚こうが、何をしようが動かし得ない、明白な天命に近かった。
ならばその、限局された時間範囲で精一杯生きようと。──少々後ろ向きながら叛骨心を励起して、自分の人生設計を行っていた者だった。
ところがだ。
現実の堀口ときたらどうだろう。
三十どころか四十を越し、五十になってもピンピンしている。
肺胞によるガス交換も爽やかに。──死神は彼の存在をうっかり思慮から零したか、ちっとも戸を叩きに来ない。
結局堀口大学は、無事還暦を迎えた挙句、喜寿に達してなお飽き足らず、米寿の更に向こう側、齢八十九に至って漸く黄泉の客となる。
──こんなはずでは。
と、本人も呆然としたらしい。半開きの口元で天を仰ぐ情景が、いとも容易く想像できる。思いもかけない健康恢復、ひいては長寿への困惑は、一種独特な滑稽味すら帯びていて永久保存したいとさえも衝動的に思うのだ。
「死ぬ筈だった者が生きてゐるほど大きな不幸はない。彼は人生を持ちあつかふ。人生が彼には重荷である。彼にはその重荷に堪へる力がない。力のないのが当り前である。何故といって彼は、こんな重荷を背負ふ準備は何もしておかなかったのだから。彼のプログラムでは、こんな重荷を背負うたりする前に、人生におさらばする筈だったのだから」

(『Ghostwire: Tokyo』より)
古今往来、数限りない芸術家らが、「運命の女神」を性悪として描いてきたわけである。
ほんに彼女は制御の効かぬ跳ね馬だ。
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