皇国の言論界は華やかだ。
雑誌ひとつをめぐっても、蓋し百花繚乱である。
ジャーナリズムに宗教性すら見出して、新たな時代の偶像に雑誌を祀り上げんとたくらむ情熱家が居る一方で、
──高級雑誌は大新聞のかつて犯した過ちを順調に踏襲しつつある。
由々しき事態だ、増上慢など思いもよらぬと、警鐘を鳴らす者も居た。

(『プレイグ テイル -イノセンス-』より)
順番に行こう。
まずは石川武美から。『主婦之友社』創業者たる彼の気宇から披露する。
「最早、現代に於いては宗教は雑誌に移って来なければなりません。印刷の発明は宗教や政治や実業の上に大革命を与へました。若し今日キリストが生れて来たならば印刷宣伝をやり記者になって神の道を説くでありませう」
己が仕事に対しての燃えるような情熱とはちきれんばかりの誇りとが、否が応でも伝わってくる。
一国一城の主へと成り上がるのも納得な、圧巻の自己肯定だった。
次いで上司小剣へ、彼の文士による雑誌批評へ視点を切り替えるとしよう。
「『中央公論』などが、頁の初めの方に載せる長ったらしい論文なんぞには、一と口に言へばよくわかることを、むづかしく、持って廻って読者を悩ましてゐるのが多い。あれを果して幾人の人が読むかと思ふ。しかしこれが看板で、これあるがために高級雑誌なのだからいよいよをかしい。昔しの大新聞が侃々諤々の議論を掲げて、人が読もうと読むまいと大得意で喜んでゐたのに似てゐるではないか。しかし昔しは閑人が多かったせいか、面白くもない其論文を辛抱して読んだ人が多く、書いた人とゝもに、眉を吊り上げて興奮したものだと聞くが、今はさういふ人間も少く、所謂高級雑誌の初めの方にある論文なんか、一種の装飾ぐらゐに思って、パラパラと披いてすぎる。さうして、さういふ人たちの手は、別に『文芸春秋』や『キング』だのへ行くのであらう」
末尾の二つがおそらくは、「高級雑誌」と対照さるべき「通俗雑誌」の代表格なのだろう。
「複雑さ」がイコール「深さ」に直結しないということは、小泉信三も繰り返し口にしていた作文上の要諦だ。無駄を省き、冗長を慎み、贅肉という贅肉を削ぎ落せるだけ削ぎ落した後の文、平明なるソレこそを、絶えることなく小泉は志向していたものだった。
要するに福澤諭吉先生の、「猿に読ませる文章」である。
慶應義塾の門弟らしく、彼の理想はあくまで福翁こそだった。
あとは水守亀之助、『中央公論』を一日で辞めた彼なぞも、同宗だったと記憶する。
「学者社会ではなるべくむづかしく、わけの分らぬことを書くことによって、えらくなってる人が可なりあるといふことである、まるで嘘のやうな話だが、文芸評論は如何にデリケートな問題で且つ複雑なものだとしても、主観の冴え、理路の透徹だけは是非望ましいものである」
斯様な意見を呈した事実がある以上、判定は不当でないはずだ。

第115回 彩の国所沢古本まつりに引き続き、目下開催中である神保町秋の古本まつりでも、また少なからぬ古雑誌を贖った。
当然すべて大日本帝国時代の産物だ。
就中、『解剖時代』の合本を格安で入手できたのは願ってもない僥倖だったといっていい。

積読タワーを崩すのが、今からとても楽しみだ。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓
![]()

