明治三十七年である。
日本原産の愛玩犬たる
高橋是清の要請である。
時の英国王妃たるアレクサンドラ・オブ・デンマークへ献上するため、言葉通りの「おくりもの」であったのだ。
(Wikipediaより、狆)
そのようにして彼女、ひいては王室の機嫌を取り結び、目下の重要任務たる対露戦争の資金調達をやりやすくする。
それが主たる狙いであった。
言うなれば、タイを釣るためのエビである。
もっともエビはエビであってもこの場合、ちょっとスーパーに脚を運べば一山いくらで気安く購い得るような、そんじょそこらの安物ではない。

愛犬家として名の高い王妃のメガネに適うべく、姿にしても気性にしても──外側内側両面に愛嬌をたっぷり含ませた珠玉の個体を選出したのは当然として。これを生かして健康なまま届けるために、特殊な設備を整えた上、腕っこきの飼養人をも同乗させる厚遇ぶりだ。
それやこれやで要した費用が、結局三千円あまり。
現代の貨幣価値に換算してざっと六千万以上。
たいへんな高級犬だった。
(Wikipediaより、アレクサンドラ・オブ・デンマーク)
一連の経緯、および数字は、当時是清の秘書役として側に在り、犬馬の労をとっていた深井英五の回顧に基く。
まず、信を置くに足るだろう。
「戦争が始まると間もなく、高橋さんが外債募集の任務を以て出張されることになった。当時高橋さんは日本銀行副総裁だったが、あちらへ行ってから肩書が入用になって『日本帝国政府特派財政委員』といふ資格を与へられた。私は日本銀行秘書役として随行した。
明治三十七年の二月二十四日に出発されたが、その時井上馨侯が横浜まで見送られ、横浜正金銀行の社宅の楼上に於て午餐会があって、その後で盃をあげて高橋さんの健康と使命の成功を祈られた。その時に井上侯は、『あなたの使命の成功すると否とが我国の運命に懸ることが多いのだから御奮発を願ふ』と言はれたが、これが高橋さんの任務の意義を簡単に現はす代表的の言葉だったらうと思ふ。井上侯は感激性の人だから涙をポロポロとこぼされた、同席の人々も暗涙を催した」
あるいは井上、かつて己が伊藤とともに決死の覚悟で赴いた、文久三年運命の洋行の情景を、忽然と脳裏によみがえらせたか。
(Wikipediaより、長州五傑)
この落涙は、それがゆえの産物と読み解いても可であるか。
実際問題、自分で自分の言葉に対し、感動している気味はある。
まあ、それについては、今はいい。
深井の回顧をたどってゆくと、狆の番以外にも、極東のいわゆる珍品を、欧州社交界の有力者らに送り届ける情景が往々にして見出せる。たとえば「ロスチャイルド家の或る人が白い藤の盆栽が欲しいといふので、大変な苦労をして取り寄せて贈るとか」いった具合いに。
そのいちいちに多大な経費の要ったこと、これまた敢えて語るまでもないだろう。
(Wikipediaより、白長藤)
およそ如何なる交渉にせよ、円滑に運びたいのなら相手の好意を買うのは必須。そのメソッドに新機軸など、易々
音物による攻勢という太古以来の道筋を、一九〇四年の是清も、忠実になぞったようだった。
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