気象と相撲は取れやせぬ。
天候に恵まれない限り、作物の健全な成長なぞ金輪際不可能だ。にも拘らず、好天を引き寄せるために有効な努力は何も無い。百姓はただひたすらに、自然の前に頭を垂れて慈悲を乞うほか、成す術を一切持たぬのだ。

縋るしかない、縋るしか。
だから彼らは往々にして、運命論者の気質を帯びる。信心深くなってゆくのだ、要するに。
小酒井不木の父親もまた、農家であった。
御多分に漏れず、熱心な仏教徒であった。
田の実りを僅かでも良好ならしめんがために、平素言行を慎んで、善行を積み以って神仏に愛されて、彼らの冥助を賜らんことを心掛けつつ生きてゆく、さても健気な男であった。
この父親が、一日息子に言って聞かせたことがある。
それがまたブディストらしい内容で、──すなわち輪廻に関してだ。
曰く、我々は皆「誰か」の生まれ変わりなり。
業に縛られ、解脱に至れず、延々苦界を彷徨い続ける衆生には、例外なく「前の自分」が
にも拘らず誰一人、「前世の記憶」を明確に思い出せないのは何故か。それは偏に、
──生れるときの苦しみがあまりに激甚過ぎるため、すっかり掻き消えちまうんだ。
と、両眼にある種迫力を籠め、幼い不木に、父は語ったそうである。

「たぶん寺の坊主あたりの受け売りででもあったのだろうが──」
後年、息子は父の背後をそのように推察しているが、とまれかくまれこの体験は極彩色に塗りたくられて、彼の記憶野の一隅に抜き難く植え付けられることとなる。
やがて不木が成長し、推理作家、犯罪心理の研究者として一廉の人物となった頃。フロイトの唱えた
「フロイトの説によると、人間の不安と恐怖の原型と見るべきものは、人間が母体から生み出されるときに起こる各種の苦痛と危険の感覚がそれであるといふのである。狭い場所に押しこめられるときの不安と、その際の呼吸の増加や、生埋めにされはしないかとの恐怖や、或は孤独にされた時の不安はすべて分娩時の恐怖がその
(Wikipediaより、ジークムント・フロイト)
戦慄したといっていい。
一行読み進めるごとに、眼窩の奥で閃光がまたたくかのようだった。
(ああ、この予想は、知っている)
白光の先、少年の日の情景が色鮮やかによみがえり、耳底に響くは、真面目ぶった父の声。
禅の用語を借りるなら、頓悟の心境に近かろう。本来、突飛と看做されるべきこの説を、
──ありうることだ。
と、小酒井不木は実にすんなり受け容れた。
「分娩といふものは母親にとって可なりに苦痛を与へるものであるが生れる児にとっては、より以上の苦痛を与へるものでなくてはならない。して見れば母親は私たちを生んでくれると同時に、私たちに恐怖の萌芽をも与へてくれたことになる。だから見方によっては母親も『怖いもの』の一種と見做すべきであるかも知れない」
まさに啓蒙的真実の一端に触れたものだろう。
小酒井不木、やはり医療協会がスカウトに来そうな逸材だった。

胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか
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