焼きちくわの発祥は気仙沼であると云う。
天然の良港で名の高い、東北地方のあの街だ。

明治十五年前後、当地に於いて水産物の加工業を
最初は本当に文字通り、篠竹の串にすり身を通していたらしい。
それが年を経るごとに、ちくわの声価が高まって、売り上げが伸び、
(Wikipediaより、一般的な焼きちくわ)
──そういうことが、昭和三十六年刊行、毎日新聞編集の、『日本の鉄道』に書いてある。
『ロシアを打診する』同様に、御茶ノ水ソラリティ古本まつりの収穫だ。
ただの単なる交通機関の説明のみにとどまらず、その沿線の風土人情気象から、名所旧跡特産品等、通俗的な四方山話をたんまり載せた構成に、まんまと魅了されたのだ。
『経済風土記』の遺伝子を感じるのである、なんとなく。
立ち読みで済ませてしまうには、ちょっと勿体なさすぎる。こいつは是非とも自室にて、じっくり読み込みたいものだ、と。そう思わされたという次第。一冊五百円という安価なところも、また購入の決め手であった。

チリ地震の翌年に発刊された本だけに、それに関したあれこれも、当然ふんだんに盛り込んである。
「気仙沼をすぎるころから、エメラルドの海が深く入りこむ湾内をのぞむ丘のあちこちに、津波記念碑が見えかくれする。太平洋外側地震帯に直面している三陸沿岸は、津波に痛めつけられてきた。ラッパ状にひろがっている湾に押し寄せてくる波は、岸に近づくにつれて大波となり、海岸にのし上がる。
歴史上にのこっているものだけでも十二回、昭和八年三月三日の大津波では、唐桑町だけで七百人が死んだ。それらの尊い犠牲から生まれた教訓が、津波碑に深く刻み込まれている。いわく“地震があったら津波と思え”、いわく“三、四十年に一度は津波が来ると思え”“急に波が引いたら警鐘ならせ”などなど……。だが、昭和三十五年五月二十四日未明のチリ津波は、音もなく襲ってきたのである」
東日本大震災の報道絡みで聞いた単語がチラホラと。
そうだ、そうとも、上の碑文の数々が如何に当を得ていたか、2011年3月11日我々は、不幸にも目の当たりにさせられた。空襲にでも遭ったが如く大炎上する気仙沼の情景は、いまだに忘れがたいものだ。
国家にとって、治水は宿命的な義務。古人の教えはつくづく以って馬鹿に出来ないらしかった。
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