ヒトラー・ユーゲント来朝の際、すなわち昭和十三年。このアーリア人種の選りすぐり、俊英三十名たちは到着早々、大和島根の最高峰を極めんと──富士登山に挑戦している。

試み自体は成功裡に終始した。
未来のドイツを、否、欧州を背負って立たんと気概に燃える青年たちはつつがなく3776mの上に立ち、雲海をしらじら染めつつ昇る陽を、日本国旗の淵源を、東の空に仰ぎ得た。
まこと、めでたいことである。
彼らに手落ちも、抜かりもなかった。
瑕疵の所在は、むしろ日本の側こそに。この一件を記事にして世間に
──ヒトラー・ユーゲントの富士征服。
なんて見出しを掲げたところがあったのだ。
果然、反撥を惹起した。

(活字拾いの子供たち)
目を三角に
当時の日本国民に、いったい何が逆鱗だったか。
この詩人から窺おう。
「征服とは何であるか、惟ふに富士は蒼古より国家鎮護の霊峰である、神州の象徴ともして常に国民の仰いで止まぬ山だ。秀麗世界に比なし。独逸青年団の一行が瞻仰と熱情とを以て是に登ったのは日本に対する礼節でもあり、国相国体とも見られるこの山の崇高な山霊に接し、登って雲海の上旭日の来迎を拝し、我が天地正大の気を感得しようとするものに外ならぬ。それを自ら卑下して征服などといふのは国家の威信に関しよう。
日本に於ては神道の精神からも、仏法弘通の伝統からもいつも高山霊峰に山霊を信じ、勇猛精進の斎場としてこれを神聖視しまた堂宇を建立した。是に登攀することを仮初にも西洋流に征服などといふ冒涜を吐きちらすべきではない」

日本人の心眼に、富士は単なる地の隆起では有り得ない。
天地の精気の凝集であり、清浄という概念が実体化したものであり、明確な一個の意志を持つ、神の玉体そのものである。
上に掲げた白秋の見識に同調する者は、現代令和社会であろうとおそらくは、相当数見込めよう。
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