あくまで犬養木堂の主観に基く印象である。
統計学的根拠ゼロ、およそ「正確な記録」とはとても呼べない代物ではあるものの、それでも当時の世相の一部を写し取ってはいるだろう。
──文明開化の掛け声も初々しかった明治前期の日本で。
記者たらんとの志望に燃えて新聞社の戸を叩くのは、往々にして「御家人の道楽者のなれの果てか町家の道楽者の果てで」あったとか。だから彼らは「通人粋人ぞろひで宴会にでも出れば当今の無芸な記者諸君とちがってタイしたものだった」んだぜ、と。まさにそうした「当今の無芸な記者諸君」を睥睨し、憲政の神は豪放に気を吐いている。

わけても特に水際立った、目から鼻に抜けるが如き才覚ぶりを発揮して、犬養毅の記憶野に殊更色濃く影を印していったのは、なんといっても『東京日日新聞』の福地源一郎だった。
「桜痴」と號するこの人は、さながらカメレオンの如く自己の体色を変化させ、その場その場の雰囲気に瞬時に溶け込む能力に異様なほど長けていた。
「福地君は酒を一滴もやらなかったが、それでゐて酔っぱらひと差し向ふと酔っぱらひそっくりのしぐさをして酔っぱらひ向きの議論もするといふ塩梅だった、こんな才物を東京日日の首脳にしてゐたんだ」
一事が万事、この伝で、福地桜痴はぬらぬらと他者の懐に潜り込み、そいつが胸奥に秘めている、記者にとっての「特ダネ」的な情報を、ごくさりげなく掠め取っていたものだ、と。
相手に
『東日』『大毎』合同にて
(Wikipediaより、晩年の福地源一郎)
「私は明治十七八年ごろに朝野新聞に入社した、そして論説を書いたが当時の論説は片仮名を用ひた、そこで片仮名で書くとおそいものだから平仮名をつかふとそこにゐた末廣鉄腸君が平仮名は品が悪い、片仮名を使へと抗議が出たが私は依然として平仮名を用ひたので一社の論文が末廣の書くときは片仮名、私の時は平仮名といふ珍なものとなった」
この大雑把さ、世の中が整頓して以降では考え難い、如何にも草創期といった手触りのエピソードであろう。
目元の皺も朗らかに、しみじみ語る犬養毅の表情が、今にも髣髴たるようだ。
(Wikipediaより、朝野新聞)
時あたかも大正十二年三月下旬、関東大震災により帝都に集積されていた数多記録が灰燼と化す、半年ほど前だった。
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