大豆は、大豆が、大豆こそ。
満蒙富源の筆頭として、世界に鳴らした作物だ。事と次第によりけりで、「象徴」の威厳さえ有す。鮎川義介とヒトラーが顔を合わせた瞬間を、1940年3月5日、猛吹雪の日のベルリンを思い返してみるがいい。総統閣下の腹を探る意図も兼ね、日産自動車創業の雄が半分
(Wikipediaより、大豆)
実に大したものである。
しかし、やっぱり、案の定。
圧倒的な声価の裏には血を吐くような苦難苦闘、多年に亙る努力の犠牲が不可欠だ。独り満洲大豆のみ、例外たるは許されぬ。満人漢人、土着農家の筋肉労働はもとよりのこと、日本人の技師たちが、智嚢をさんざん絞り尽くした、
日露戦争決着以前、すなわち南満洲鉄道会社の「ま」の字もなかった時分に於ける満洲大豆というものは、「旧習により粗放な耕作法で栽培したため、同一地方で千差万別の豆類を産し、甚しきは、同一の畑で十種類近い大豆種を混じ」るといった、まだまだ未熟な段階だったそうである。

(豆粕積出作業中)
品質の均一化が大量生産・大量消費の流れに乗るに如何に不可欠な条件か、敢えて述べるを要すまい。
至急、テコ入れが必要だった──と、当時を回顧し、語るのは、上田恭輔なる男。
当然、満鉄に関しては、草創期から縁が深い。表裏巨細を問わずしてあらゆる事情に精通している、「生き字引」といっていい。
斯かる背景を頭に入れて、上田の言葉を、更に続けて追ってみる。
曰く「テコ入れ」、上の状況を改善するため預かって力あったのが、公主嶺駅西に置かれた農事試験場だった。

(公主嶺市街)
当時の水準からいって、「東洋一の規模なり」と称えられた施設であって、むろん満鉄経営である。ここを拠点に「全満最良の大豆産地たる開原、長春から良種を集め、年々更に選抜して、八千八百本の大豆苗より数年後今日の改良大豆産種を作り、その種子を希望者に
文字にしたなら数行足らずの仕事だが、実際行うともなると、尋常ならざる根気を要する研究だ。それこそ朝鮮米の改良事業に、勝るとも劣らないほどに──。
(Wikipediaより、いろいろな大豆)
敗戦に埋もれてしまったが。東亜の大地に日本人が嘗て遺した功績は、やはり多大だ、多大に尽きる。
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