文人どもの嘗て吐露せし感情中に、視力に関する憂いなんぞを発見すると正味ゾッとさせられる。
他人事ではないからだ。
眼球を過剰なまでに使うのは趣味が読書である以上、私自身避けようのない宿命である。
だから怖い。下手なホラーの何百倍もおそろしい。いつか自分も
業と呼ぼうか、因果と呼ぼうか。
吉井勇を読んでいて、つくづく戦慄させられた。
「…私は自分の趣味として眼鏡をかける気になれなかった。この二三年加速度的に、だんだん遠視の度が強くなり、新聞などは見ても標題の大きな活字だけが、はっきり目に映って来るだけで、本文はまるで朦朧としてゐて、何が書いてあるやらさっぱり判らないのに、私は友達に向って笑談のやうに『僕は目で読むんぢゃあない、すべてカンで読むんだよ』といふやうな強がりの拗ね言葉を、布袋笑ひとともに吐き出しながら、頑なに眼鏡を掛けずにゐた。谷崎潤一郎君も『身辺雑話』といふ随筆の中で『ちかごろ原稿を書くのがどうも心苦しい。深夜になると目がかすんで書くことも読むこともだめになる。年をとったせゐと、家庭の人になったせゐかも知れない』といって、眼精の衰へを歎じてゐるが、考へて見ればお互いに老境のこと、肉体の上にかういった陰影が、だんだん濃くなってゆくことは、如何に人間がもがいても抗っても、結局避けられないことなのである」
人生の至楽はまったく目に依存する。
視力なくして何の生き甲斐やあるだろう。――少なくとも私個人に限って言えば、すべての趣味がそれで死ぬ。
ヘンリー・フォードが夢見た通り、人体の部分品販売が可能になる日は来ぬものか。自動車のパーツでも取り替えるような気軽さで、目でも耳でも臓器でも、交換可能になる
(昭和の学生。眼鏡率高し)
劣化しない生命へ、――不老長寿の実現を希望する心の切実性は日を追うごとに増すばかり。あるいはこんな精神傾向そのものが、既に「老い」の表徴か? 薄々ながら自覚しつつも止められぬ。全く以って、ままならぬ限りだ、畜生め。
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