人を見る。
じっと見る。
大阪梅田の駅頭で、あるいは街の活動写真の入り口で。手持ち無沙汰にたたずみながら、しかしその実、行き交う人のつらつきを油断なく観察している奴がいた。
「こうしていると、ここでその日いちにちに、いくらぐらいの実入りがあるか、どれだけ金が動くのかが分かるんだ」
ほんのちょっとした特技、まず罪のない遊びだよ、と。
小林一三はうそぶいた。
(小林一三、昭和十年、ハリウッドにて)
真綿に針を包むが如く、垂れた目蓋に眼光の鋭利を秘め隠し。
これが自分の趣味の一環、大事な余暇の消費法、と。
阪急東宝グループを築き上げた功労者、「創業の雄」たる人物は、金銭に対する磨かれきった感覚を詳らかにしてくれた。
「…実際慾を言へば人の顔が金に見へる、百貨店でも地下室から八階まで上っちまふ、それからぐるぐる降りて来ると収入の見当がつく、大概あたるもんだね、さう云ふやうな人の動きとか、波とか云ふやうなものを見て歩くのは非常に面白い」
目も眩むほど鮮やかな黄金魔といっていい。
明治二十年代に、「うらない娼妓」と持て囃された名物女が吉原に居た。
(吉原の景)
娼妓の身でありながら春を鬻ごうとしないとか、媚を売らないとかいった、そういう矛盾撞着で獲得した称号ではない。
「売らない」にあらず、「占い」娼婦。客を一目見ただけで、そいつの懐具合のほどを霊妙不思議に言い当てる。ほとんど百発百中に近く、それで評判になったのだ。
己の事業に誠心誠意打ち込んでいる人間は、ときに超能力めいた、説明不能な感覚を開花させるものらしい。
(荒木飛呂彦『スティール・ボール・ラン』より)
人の奥にはまだまだ未知の鉱脈が、なお残されているようだ。
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