いついつだとて「コラ」か「馬鹿ッ」。啖呵と共に鉄拳が飛ぶ。家庭人としての漱石は、どうもそういう一面を、ある種悪鬼的相貌を備えつけていたらしい。
次男の夏目伸六が、かつて語ったところであった。
「あれは一種のパラノイアて奴で…」
と、アレ呼ばわりで親父をこき下ろしている。
(フリーゲーム『芥花』より)
「機嫌が悪いと堪らないんだ。俺達が泣くとあの腐ったやうな眼で何時間でも睨むんだ。何時かカチューシャの歌を廊下で歌ったら、いきなり来やがって『コラッ』と殴られちゃった」
この発言があったのは、昭和十年、津田青楓との座談の席で。津田もまた、夏目漱石の門人及び友人として世話になったり手古摺らされたり、酸いも甘いも噛み締めまくった人物だ。それだけに、同類相憐れむというか、どうしようもなく気脈の通じる部分があって、お互い口も軽くなったのであろう。
息子は実に饒舌に、父親の文句を喋りまくった。
「一番酷かったのは近所の縁日で軍艦の射的を俺達に打ってみろと云ひ兄貴は人が見てゐるんで恥しいから嫌だと云ふと、俺に打てと云ふんだ。俺もヤだと云ったんだよ。この時みたいなのはみたことがねえな、殴る、蹴る、往来でだぜ。自分も恥しがり屋で見栄坊の癖に、俺達の事だととてもひでえ声を出しやがる」
言葉遣いも砕けきったものである。
「あれは、病気になった日だよ、学校へ行く前に寝てゐる親爺に飛びつかうと入ってゆくと、ヘンなんだ、もうひどく悪かったんだね、それでやめたが、あのとき飛び付いたら俺が殺したといふことになったらうな。一週間で死んだが、俺アちっとも悲しくない、その日の午後、目をあけやがってひどく優しい顔をして『泣いちゃいけないよ』と云ったが、俺ア泣いちゃゐねえからひどく気の毒な気がしたよ、その晩死んだ」
伸六はやがて父の著作を読み耽り、読破が重なるに従ってその偉大さを認識し、目から鱗をボロボロ零して敬服するに至るわけだが、この時点ではしかしまだ、さんざん暴力をふるわれた陰惨な記憶が拭えなく、とても虚心坦懐に語るのは無理なようだった。
といって昭和十年ともなれば、漱石逝いてはや既に、十九年を経ているのだが――。
幼少期のトラウマが如何に根深いかが分かる。
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