時期的に台風が濃厚である。
明治二十四年九月四日、朝鮮半島仁川港は暴風雨に襲われた。
たまたま彼の地に日本人の影がある。韓国政府の招聘を受け、当港にて海関幇弁をやっていた青年・平生釟三郎だ。
(Wikipediaより、平生釟三郎)
川崎造船所のダラー・エ・マンにやがてなる、この人物の遺しておいてくれていた「被害報告」が面白い。ーーなんでも和船や西洋船は一隻たりとも損傷せずにやり過ごすを得たのだが、滑稽なことに、地元朝鮮の船舶だけが二十数隻もやられるという大出血を食ったとか。
原文をそのまま引用すると、
「…碇泊せる倭船、合の子船、洋形風帆船如き一隻も難破せずして錨すら失ふたるものあらざるに朝鮮船の難破せるもの二十余隻に及べり、殊にその難破の容易なること実に驚くべく激浪一過錨索を断てば船体漂々岸壁に衝突し舟夫一声の叫換と共に船体細片に砕け復其形を認むる能はず、其脆弱なること他に比類を見ず」
ざっとこんな趣旨だった。

(朝鮮の渡し舟)
驚愕も露わに末尾に書いてある通り、十九世紀の朝鮮船は構造粗雑ですぐに壊れる、耐久性がめっぽう低い。
良材を得られない所為である。質の詰まった、長く丈夫な木材が。
考えてみれば自然の帰結、国中行けども禿山だらけで、たまたま樹木が見つかれば即刻根までほじくり返してオンドルの燃料に宛てる文化だ。火田民の如き連中も居る。躯幹隆々天をも摩する巨木なぞ、到底育ちようもない。
「植物分類学の世界的権威者たるドイツのエングレル教授が、嘗て汽車で朝鮮を通過した際、その荒廃した状態に、『朝鮮の植物などは取調べる必要がない』といった」「汽車に乗って釜山から義州まで行くと、窓外に展開する朝鮮の山々は、真に荒廃しきって、ただところどころに松の稚樹がぽつぽつ生えてゐるのをみるだけである。但し特に現代式の植林をした場所には、立派な松林やクヌギ林などを見るが、それはまだ極めて少部分である」
大正十一年ごろに中井猛之進が通過した、つまり日本の統治下で緑化に力を入れまくっていた段階ですらこうなのだ。
いわんや明治二十年代に於いてをや、である。
(Wikipediaより、中井猛之進)
平生釟三郎はまた、海関幇弁時代に於いて京城旅行を実施して、自己の知見を深めるべく努力している。
研鑽を怠らぬというか、好奇心旺盛というべきか。
筆まめなのは疑いがない。この体験を元にして、良質な紀行文を編み上げた。
『京城に遊ぶの記』とか云う直截極まる題名を、彼はその稿に付している。生々しいソウルの街の光景を、そこから抽出してみよう。
「朝鮮人が不潔を意に介せざるは予想外にして先づ一例を挙ぐれば米飯を炊くの釜を持って汚れたる犢鼻褌垢つきたる衣服を煑て洗濯す、普通の朝鮮人は雪隠を有せざれば市街の両傍に通ずる溝梁は皆屎道尿道に異ならず而して朝鮮人は溝渠の落込む小河の流に至り膳茶碗等の厨具は勿論顔を洗ひ口を漱ぎ尿塊流れ来る時は手を以て之を避け且洗ひ且放尿するが如きは珍しからず、かゝる有様なれば暴雨の後とはいへ尿塊路傍に点々し一種の朝鮮臭(特別の臭気にして名状すべからず)市街に充満し烈風も暴雨も之を一掃し之を洗除する能はず、此悪臭に慣れぬ者は覚へず嘔吐を催すべし」
疫病の巣窟になるわけだ。

論外の不潔さ、話にならない衛生状態。これまた併合以前に於ける韓半島のイメージにピッタリそぐうものである。
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