妄想癖を生みやすいのは、一に病弱な人間だ。
ただ天井のシミばかりを友として床に入って居らねばならないやるせなさ。活動する世間から切り離された疎外感。とろとろとした時間の中で、人は次第に己が心に潜り込み、その深淵の暗がりに、娑婆では到底望まれぬ自由境を描き出す。
(VIPRPG『やみっちホーム』より)
建築家・岡田信一郎、今なお各地に数多くその作品を留め置く大正・昭和の名工は、才気と引き替えにしたかの如く多病質に出来ており、それが理由で日が高いにも拘らず籠らざるを余儀なくされた布団にて、実に多彩な
時には自分が死んだ後の情景なぞにも想像を馳せたそうである。
「…棺桶の事なども考へて見る事がある。小柄な僕の棺桶は小さくて安くて済むなどゝも思ふ。早桶はいやだから是非臥桶にして貰ひたいなどゝも望む、火葬場の焼竈の中で薪が燃え上って棺桶がつぶれて死骸の上に燃えさしの余燼が落ちかゝるなどゝも考へて見る。又土葬して地水が棺桶の中にじくじく浸み込んで来て棺桶が腐って上の土と墓石の重さで潰れる有様などを想像して見る。あんまり好い気持ではないが、併し死んでしまへばあとはどうなった所で大した事ではない」
秋が深まりゆくにつれ、死への想いもまた募る。
(フリーゲーム『××』より)
死に臨んでの古人の表情、遺言、哲学、辞世の句。強がり、誤魔化し、断末魔。そういう類のあれこれに惹きつけられて仕方ない。
吉田絃二郎に言わせれば、これは当然の作用だそうだ。
秋こそニヒリストの季節だと、彼は静かに説いている。
「世を拗ね、世を厭う人々にとりては秋こそ一年たゞ一度の好季節である。一鉢の花にわが世を歎くもよし、二鉢の朝顔に道路裏のはかなき栄華をほこるもよし。人間であるかぎりは、あきらめてもあきらめても、あきらめのつくものでもあるまい。悟り切ったと思ふ刹那に新しい迷ひは生まれ来るであらう。せめて一朝の槿花の栄を夢とも見、磨き上げられ、澄み果てたる秋の空を見る刹那だけでも、わが心を凝視するほどのゆとりを見出す者は幸福である」
(江戸東京たてもの園にて撮影)
生田春月も秋を殊更好いていた。
己が詩集のタイトルに『霊魂の秋』と命名していた点からも、明らかなることである。
ああ、今年もまた随分と、夜が長くなってきた……。
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