「最近の若い娘ときたら、えらくひ弱くなっちゃって」
明治生まれのアラフィフが、口をとがらせ言っていた。
「苦労知らずな所為だろう。薪割りに斧をふるったり、くらくら眩暈がするくらい火吹き竹を使ったり。つるべで井戸から水を汲む、あのしんどさも知らずに大きくなるんだからね。『文明』がそういう、
――だからお産で泣くような、情けない
と、彼女の話はいよいよ以って危険な相を帯びてくる。
(昭和館にて撮影)
現代令和社会にて、こんなセリフを
発言者の名は竹内茂代。
「日本女子の体格分類統計」という研究により博士號を克ち取った、本邦女医の草分け的存在である。
本業の傍ら、社会運動に参画し、婦選獲得同盟の一員として尽力するなど、筋金入りの女権拡張主義者としての一面をも併せ持つ、そういう茂代が紡ぐのだ、
「以前にはお産の時に泣くのは女性の恥とされてゐたし、又よくその苦痛を耐へ忍ぶ体力を持って居たのだが、年々お産に泣く婦人が多くなって来た、これは気持が弱くなったと言ふよりは、これを耐え忍ぶ体力が無くなったと言ふ方が妥当である。要するに外見は立派になったが実質はむしろ退化してゐる」
だから女もスポーツなりなんなりで、積極的に体力を培う要があるのだ、と。
そんな結論へ導いてゆく、昭和初頭の提議であった。
(明治神宮競技400m自由競泳)
時代相といっていい。
フェミニストの内実も、西紀をひとつ跨ぐ間にまた随分と変化した。そう思わずにはいられない。
――文明開化が家庭に於ける女の仕事を奪ってしまった影響は、竹内茂代以外にも、たとえば塚本はま子あたりが好んで論じたものだった。
それも竹内よりずっと早期に、大正七年の段階に於いてもう既に、だ。
「昔の女は家の内で
文明は今日此等の女の仕事を凡て家庭内から奪って外の工業が供給してくれる物を買ふ方が所謂経済だと言ひます、…(中略)…ランプ掃除も、骨を折って釣り上げる水汲む仕事も無くなったとすれば事実に於て之だけの女の為る用事がなくなったのです。
其の代り其の楽さ加減を何処かにお金で払はなきゃならない、其負担は即ち全部家長が負ふといふ事になりますが私は生活問題の根本は其処にあると思ひます、つまり男
つまり文明の発達による家事の簡易化、金銭による代行は、必然として稼ぎ頭の、男の、家長の存在を、ますます重からしめてゆく、と。
これに抗い、地位と権威を女が守り通すには、「共稼ぎといへば賤しい労働者にのみ限るといふやうな因襲的な偏見を捨てゝ」、家庭の
そのように発展させるのが、塚本はま子の論議であった。
同じ現象を扱いながらも話の焦点は結構違う。
専門分野や年齢差に因るものか。とまれかくまれ、物事を多面的に眺められるのはありがたい。乱読はしてみるものである。
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