成虫になったカイコは当然、繭を破って飛び出してくる。これが困りものなのだ。繊維の中途で断裂した繭からは、ロクな糸が紡げない。商品価値はダダ下がりである。だからその前に煮込んでしまう。中身が未だサナギのままの、完全な状態の繭を湯に入れ、糸を取る。
カイコは繊細ないきものだ。湯の熱量に、むろんのことひとたまりもない。ことごとく死ぬ。死んで、屍骸がぷかぷか浮かぶ。繭ひとつから紡げる糸など、
ともすれば見落とされがちな、製糸業の副産物。浜名湖のウナギはこいつをエサにすることで全国に鳴る美味を得た――と、ここまでが以前に触れたところだ。
(富岡製糸場内部)
だが、蚕蛹の用法は、なにも飼料に限らない。
畑を肥やす――肥料にあてる
もっとも形を留めたまま
分解・吸収に時間がかかって非効率だし、なによりサナギに含まれる多量の脂油がくせものだ。どれほどあぶらっこいかというと、こいつを絞って亜麻仁油の代用品を作ろうという研究が大真面目に行われたほど。しかも一定の成果を挙げた。
その絞り粕を入手できれば話は早いが、ツテを持たない、あるいは研究開始以前の時代の農家らは、脂油の害を除くべく、自力対策に腐心した。
某地方では、こんな風にしていたという。
蚕蛹と同体積の草木灰を用意して、臼で念入りに搗き合わす。完全に原型がなくなって粉末状になったのを、これまたしっかり乾燥させる。
上の工程を経ることで脂油の害が除かれるのはもちろんのこと、臭気の発生も予防でき、従って長期保存にも堪え、運搬便利、吸収効率上昇と、いいことづくめの標本のような効果がみられた。
(Wikipediaより、絹)
養蚕の衰退、著しい――どころではない、ほとんど絶滅しかかっている現代日本社会ではまったく無価値な情報であり、智慧であろうが。さりとて要不要に拘らず、面白味は宿るのだ。
福澤諭吉も言っていた、
――世界中の至宝と称して其価の最も貴きものは必ず人事の実用に通ぜざる品にして、其実用を去ることいよいよ遠ければいよいよ人に貴ばるゝを常とす。
と。
うろおぼえだが、星新一の小説にも似たようなセリフがあった気がする。
つまりは無駄こそ人生を芳醇にしてくれる、かけがえのない要素なのではなかろうか。
ゆえに私は今日も明日も古書をひもとき、使い道のない無駄な知識を脳にたっぷり刻み込むのだ。
ただそれが
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