新政府には
草創期も草創期、成立直後の現実だった。
およそ天地の狭間に於いて、これほどみじめなことがあろうか。国家の舵を握る機関が無一文に等しいなどと、羽を毟られた鶏よりもなおひどい。まったく諷してやる気も起きないみすぼらしさだ。
維新だの回天だの、きらびやかな文字修辞をいくら連ねてみせたところで、これでは却って逆効果。懐具合の寂しさは、一切を台無しにするに足る。
当人たちにも自覚はあった。西郷にしろ大久保にしろ、貧家に生まれ窮乏の中で
意見はたちまち纏まった。付け焼き刃でも弥縫策でも、なんと呼ばれようといい。とにかく体裁を整えるのが第一だ。まさに急務といっていい。この任を全うするために、矢面に立って奔走したのが三岡八郎――のち改名して由利公正――なる男であった。
明治元年一月二十九日、京阪地方の主立つ商人百名あまりを二条城に呼び集め、大上段から高々と、
「新政府会計基金として、三百万両を差し出せ」
こう呼ばわった一景は、三岡にとって一世一代の晴れ舞台であったろう。
実際問題、広く人口に膾炙され、後世まで根強く残る話でもある。
さりながら、三岡が、ひいては明治政府が、京阪地方の商人どもに金を強請った事例というのは、決してこの一度のみ――三百万両のみでとどまる沙汰でない。
ものの半月も経ぬうちに、もう追加注文が下りている。もっとも今度は鴻池以下、選りすぐりの豪商十四名に限定されたが。とまれ彼らが再び二条に脚を運ぶとどうだろう、やっぱり三岡が姿を現し「金をよこせ」のお達しである。
曰く、天皇陛下が「吾妻の方へ御親征のこと」あるにつき、その費用としてのべ十万両が必要とのことだった。
(冗談じゃない)
商人どもは真っ青になった。三百万両の割り当てさえも、誰がどれだけ支出するかで討議に討議を繰り返し、未だ決着を見ていないにも拘らず、なんと横柄な註文だろう。
(幕府がぶっつぶれて以来、ろくでもないことばかりが起きる)
なにか、新政府の閣僚とやらはあきんど虐めが趣味なのか。それとも我らが各店舗にはひとつづつ、打ち出の小槌の用意があると妄信しているんじゃないか。
叫べるものなら叫びつけてやりたかったに違いない。
が、その衝動を実行した暁が、即ち身の破滅であろう。
喉元まで出かかった言葉をぐっと呑み込み、代わりになんのかんのとお茶を濁して、彼らはとにかくこの急場から逃げ出そうと努力した。
(大阪、江戸堀蔵屋敷)
奇蹟が起きた。努力が報われたのである。何の確約も与えずに、十四人は辞去するを得た。
さりとて三岡も執拗である。固より容易に事が運ぶと思っていない。自分が押そうと齷齪している横車がどれほど馬鹿げた規模なのか、彼には確かな自覚があった。
この時期、彼の手元から発射された督促は、矢継ぎ早としかいいようがない。
うちの一枚、会計局の名の下に発せられた令達を見ると、
「其方へ右御用達仰つけられ候、千古未曾有の御大業に候へば能くよく報恩を相弁へ一分の御奉公致すべく候」
何はともあれまず第一に大義名分をふりかざし、
「至急の御場合を存上げ心いれよろしき者へは格別の御賞美もこれあるべく候」
こっちの事情も察しろ、金がないのだ、新政府には金がない。
そのあたりの苦しみをよく理解して自発的に協力してくれるなら、後々利権なりなんなりと――「格別の御賞美」を与えてやらんこともない。
多少の媚態を呈しておいて、しかしその次、
「万一心得違ひもいたし、其力ありて其力をつくさざる者は逆意にひとしきすじに候間この旨しかと相心得候こと」
もしも懐に余裕があるのにカツカツですと偽って、この「千古未曾有の御大業」を援けようとしないなら、よろしい、そいつは逆賊だ。
逆賊らしく扱ってやるから覚悟の臍を決めておけ――そんな威圧を籠めている。
明治政府が成立早々、政商どもの巣窟と化した淵叢は、案外こんなところに見出せるのではなかろうか。
(大阪、本町筋問屋町)
銃口をチラつかせつつ空手形を切りまくり、漸く三岡は十万両を集め得た。甲斐あって、明治元年三月二十一日、大阪行幸が実現された。「先づ大阪へ行幸暫く御駐輦にて関東の形成に依り東海道より大旆進めらるべく候」というのが、「吾妻の方へ御親征」の、かねてよりの段取りだったからである。
――何はともあれ、無事に済んでくれてよかった。
サアサぼやぼやしている余裕はないぞ、まだ「本丸」が残っとる、例の三百万両だ、あれの割り当てをどうすんべえと疲弊しつつも前を向き、次の課題に取り組みだした京阪商人群の背に、しかしまたもや重石が落ちる。
そう、あろうことか、三度目の金の無心であった。
しかも二度目より額が大きい。三条実美が関東大監察使として東下するため、至急五十万両を用意せよと来たものだ。
(むちゃだ)
もはや憤慨を通り越し、目の前が真っ暗になる思いがしたろう。
商人たちは今度こそ首を容易に縦には振らず、財布の紐を堅くした。当たり前である。
当たり前のことをした結果、彼らは先のお達しが、徹頭徹尾本気だったと思い知らされる破目になる。
明治元年五月二十三日、大阪在勤を命ぜられ、後藤象二郎がやって来た。
更に七月十二日、大阪府知事に任命。翌二年二月二十四日まで勤務したが、この間の彼の行状は、一個の債鬼が如しであった。
大阪入りした後藤は、「先づ突然市中警備と號して豪商某々等の住宅を囲みて兵隊を分屯せしめ、之と同時に主人を府庁に呼出し国債三百万両御借上げの儀を厳然として申渡し」たというから凄まじい。
葭屋町通一条下ルの生糸商、大和屋めがけてさんざんに大砲を打ち込んだ、芹沢鴨を彷彿とする暴挙であった。
効果は覿面至極であって、呼び出された商人たちは「孰れも
が、それも致し方ない。下手に断ればこの男、何をしでかすかわからない。面接者をしてそういう畏れを抱かしめる人間的迫力、あるいは狂気とも呼ぶべきそれが、後藤象二郎の輪郭を陽炎の如く覆っていたのだ。
一事が万事、この調子でやり抜いた。
当時の大阪人士らが、後藤をどのような眼で眺めたことか、想像するに難くない。
さながら官製御用盗、落花狼藉の限りを尽くす木曽義仲の亜種のように見えたろう。
だがしかし、後世に棲む我々は、また違った観点を持つ、有し得る。
蝋燭は自ら消滅して光を放つ。光を放つには自ら消滅せねばならぬのである。蝋燭にして意識あるならば、蝋燭が光の犠牲となるのである。石炭を焚いて電気を供給するのもさうである。一方には石炭が消滅し一方に電燈は輝く、何事かを起すには何事かを損する。何事をも失うことなく、唯得ばかりすると云ふことは有り得べきでない。幾らかの犠牲は普通のことである。(大正三年『世の中』)
三宅雪嶺が嘗て喝破した如く。
畢竟この俗界で事を成さんと欲すれば、多かれ少なかれ、必ず誰かに害を与えなければならぬ。
もしもここで、この段階で
その惨禍を
誰かがこれをやらなければならなかったのだから。
そして『君主論』の教える通り、「加害行為は一気にやってしまわなくてはいけない」。
変にびくびくして小出しに
「国家の指導者たる者は、必要に迫られて行ったことでも、自ら進んで選択した結果であるかのように思わせることが重要である。思慮深い人間は、ほんとうのところは行わざるを得なかった行為でも、自由意志の結果であるという印象を、相手方や周囲に植えつけることを忘れない」。偶然にも後藤の挙動はマキャベリの主義を忠実になぞり、しかも華々しく成功をおさめたものだった。
生み出す犠牲にひるむことなく目的達成に邁進できる精神性を大人物の素養とすれば、なるほど確かに後藤には巨人と呼ばれる資格があろう。
ただし多分に、資格だけのきらいもあるが。
そのあたりの事由につき、再び雪嶺の言葉を引いて、本稿の締めくくりとさせていただく。
清濁併せ呑むは、言い換ふれば胸に仏と鬼とを備ふるのである。備ふるには備へても、何れを出すかといふ段になり、仏を出し、鬼をして之を助けしむるもあり、或は鬼ばかり出すのがある。仏を看板にして鬼を働かさすのもある。(中略)西郷南洲は清濁併せ呑み、而して清を吐かうとした方である。後藤伯は同じく併せ呑み、而して濁流を構はず吐いた。後藤伯は大人物たるの器であったが、晩年何事を心がけて居るか分らなくなった。(同上)
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