アメリカには「年俸一ドルのCEO」が大勢いる。
スティーブ・ジョブズをはじめとし、Google創業者のセルゲイ・ブリン、ラリー・ペイジ。時計ブランドフォッシルのコスタ・カーツォーティスに、ギンダーモーガンのリチャード・ギンダー。
鮎川義介が「ダラー・エ・マン」と呼称した、そんな「型」の男たち。如何にも超大国に相応しい精神風土よと感じていると、意外や意外、我が日本国にもこの種の経営者が居たと知って度肝を抜かれた。
川崎造船所社長時代の、
平生がその任に就いたのは、実に昭和八年二月の砌。事業低迷し、もはや瀕死の瀬戸際にある同社をどうか救ってくれと、男爵郷誠之助に懇請されたことに因る。
これは難しい相談だった。成功率云々以前に、平生の人生設計に反する。
――五十歳までは日本の実業界に身を挺し、五十歳からは青年教育を自分の思う通りにやってみたい。
それこそ平生の予てより抱懐している
常務取締役の椅子にあったが、惜し気もなく退いた。
にも拘らず、いまさら再び実業界に戻るというのはどうであろう。節を曲げろと言うに等しい、無理な註文ではあるまいか。
(が、それでも平生には承けてもらわねばならぬ)
郷は郷で必死であった。彼の見るところ、この仕事を成功に導けるのは平生を措いて他にない。孔明に三顧の礼をとる劉備のような心境で、郷は説得を試みた。
(Wikipediaより、郷誠之助)
至誠一貫した彼の気迫に、あるいは胸を打たれたか。ついに平生は頷いた。
が、条件をつけた。
その条件こそ、およそ二万円と言われた社長職の年俸を一万五千円に削減し、更にその一万五千円を、ぜんぶ造船所に寄付するというべらぼうな内容。平生釟三郎をして日本のダラー・エ・マンたらしめた一項に他ならない。
そうした「前提」を設けておいて、いざ就任の暁に、平生は社員一同へ、次のような演説を行っている。
「私は自分一個の名誉のためや利益のためなどで、今日川崎造船所へ乗込んで来たのではない。一万五千の従業者諸君、ひいては数万の君達の家族のパンのために立ったのである。
私は一切の報酬を受けない。しかし一生懸命に働く。川崎造船の更生に粉骨の努力をするつもりだ。君達もどうかそのつもりで、賃金は今のままで、一時間だけ余計に働いて貰ひたい。私は川崎造船の更生を確信してゐる」(『私は斯う思ふ』244頁)
苟も血の通う人間ならば、まして男であるならば、平生の檄に感動せねば嘘であろう。ふつふつと、腹の底から滾ってきて当然だ。
相次ぐ軍縮条約で建造を打ち切られる船舶多数に及び、金融恐慌、世界恐慌が追い打ちとなって、青色吐息のどん詰まりにあった川崎造船。
いっときなどはその株式が、たったの八十銭で取り引きされたほどである。当時の物価でネクタイ一本買えやしない。正に窮境、死まで秒読みというところであろう。
それが昭和十一年の時点では、なんと三十五円台まで上昇している。実に四十倍以上の跳ねようである。まるで不死鳥さながらの、あまりにも鮮やかな復活だった。
金輸出再禁止、軍需インフレ等々、その要因は多岐に及ぼう。
が、事業の根幹はやはり人だ。
平生釟三郎という中核なくしてこれほどの発展は不可能だったと、私はこの点確信している。
(Wikipediaより、 平生釟三郎)
社長業の傍ら、平生は元来の教育熱を発揮して、造船所内に「東山学院」なるものを設置している。
造船所の見習い工で、夜間学校に通っている青年が多いのに着目し、彼らのために敢えて開いたものだった。造船所で一週間働けば、次の一週間ここで勉強することが出来る。むろんのこと給料は、働いている間も学問に勤しんでいる間も同様に支給される仕組みである。
やって見ると、工場に於ける能率も非常によく上る。それでその生徒のうちで特に成績がよく、前途の見込みのある者には、上級の学校にやって、その才能を自由に発揮させる途も開いてある。(246頁)
苦学生にとっては、平生が神のように見えたろう。
(正しく強く働く者に幸あり
平生釟三郎)
鮎川と同じく平生もまた貧乏士族――武士の末裔として生を享けた男であった。
一連の精神の格調高さは、やはり侍の
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