昭和二十三年――すなわち1948年12月の西日本は、常ならぬ暑さに見舞われたという。
佐賀県では八重桜がもう開き、花見をしながら年越しというのも乙なもんよと酒盛りを始める見物客が山と詰めかけ、その風体もほとんどがワイシャツ一枚という軽装で、季節感もへったくれもありゃしない。
高知県ではタケノコが、山陰地方では玉ねぎが、滋賀県ではフキノトウがそれぞれ芽を出し、瀬戸内海はイワシで溢れ、このため漁師は年末の休みも返上し、ほとんど掴み取りにする勢いでこれを獲り、ために大阪府水産課は出荷割り当ての変更にきりきり舞いを演じなければならなくなった。
何故私がこんなことを知っているのかというと、単純な話で、ここに当時の新聞記事があるからである。
購入した古書、白紙のページに糊付けされたものだった。
「大毎二三、一二、二七」と、鉛筆での書き込みが見て取れる。
前所有者の記録だろう。昭和二十三年十二月二十七日の大阪毎日新聞から切り抜いた記事だと推測した。
神保町が「シャッター通り」から復活して、およそ三週間程度。こうした前所有者の痕跡が、再び手元に集まりつつある。
こんなものも挟まっていた。慶應義塾大学教務部からの郵便はがきだ。
こちらが裏面。
法学部教授会通知
日時 五月十八日(金) 午后二時半
場所 第二会議室
四月十四日
法学部長
と読める。
宛名にある「前原光雄」という人が、おそらくはこのはがきを秘めていた『国際紛争史考』のかつての持ち主だったのだろう。
少し気になったので調べてみると、ちゃんと記録が残されていた。
前原光雄、明治三十五年、岡山県に誕生。
大正十五年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業すると、同年助手に、昭和七年には助教授に、同九年には教授にと、順調に歩みを進めている。
このはがきは教授会の通知だから、昭和九年以降に受け取ったものであるだろう。
平成三年に逝去。明治、大正、昭和、平成と、四つの時代を生きた人の、おそらくは蔵書が私の手に。
おのずから背筋が伸びざるを得ない。
市が所蔵していた日本武尊像。彼の持っている剣が、「片刃なのは時代考証的におかしい」として勝手に両刃に付け替えたところ、その実行者らが訴えられて書類送検されたという記事。
これは記事そのものよりも、記事を挟んでいた本が『軍隊秘笑録』であることに一層の面白味があるだろう。
「山梨県立日川中学校学友會蔵書之章」――この「日川中学」という名前、覚えがある。
山梨県ではかなり名の知れた学校だ。もっとも「中学」だったのは1906年から1948年までで、今は「日川高校」となっているが。
私の母校でこそないものの、同級生に何人か、ここへ進学した者がいる。
地元の高校のかつての蔵書を遠く離れた神保町で手に入れるとは、不思議なめぐりあわせもあったものだ。なんとなく奇妙な心地である。
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