胃の裏側に横たわるカズノコみたような形の臓器を、杉田玄白以下蘭学者たちはまず初め、「
機里爾とは、すなわちKlier。オランダ語で「腺」を意味する言葉である。
この器官の主要目的がアルカリ性消化液の分泌と、血糖値調整のホルモン分泌にある以上、当を得た命名であったろう。
(カズノコ)
ただ、五臓六腑をまとめて書き並べてみた場合、肝臓心臓脾臓肺臓腎臓、胆胃大腸小腸膀胱ときておきながら最後の最後に「大機里爾」では、なにやら全体の調和を欠いて、体裁の悪さが拭いきれない憾みがあろう。
それのみが理由、というわけでもないのだが。
兎にも角にも改称の必要が高唱されて、やがて大槻玄沢によってこの課題は達成される。
彼のものした『重訂解体新書』の原稿中、「大機里爾」は「肫臓」と表記されていた。
その由来は、洋書に於けるこの器官の原語たる「パンクレアス」に重きを置いたものらしい。パンは汎であり「すべて」を意味し、クレアスはまた「肉質」を指すラテン語である。一連の意味を踏まえて玄沢は、「肫」の一字を新造してあてがった。
「屯」とはこの一文字で「たむろ」と読ませることからも知れる通り、あつまる、集合するといった意味を内包している。よってこれに肉月をくっつければ、たちどころに「肉の塊」という意味になるではないか。
(Wikipediaより、ターヘル・アナトミア)
妙案といっていい。
これで安心、ご苦労さん――と胸を撫で下ろしたのも束の間のこと。
ほどなくして、思いもかけない方向から「待った」がかかる。実はこの「肫」という字、玄沢が考案するよりもずっと以前から別の意味で使われていた、いわゆる既製品だったのだ。
平安中期に編纂された漢和辞書たる『倭名類聚抄』中に、もうこの一字を発見できる。鳥の五臓、特に胃を指す言葉であった。
――これはいけない。
一同、意見が一致して、件の器官は再び改称を迫られるという展開に。
最終的な決着は、宇田川玄真の『医範提綱』によりつけられる。玄真もまたパンクレアスを由来としながら、しかし「屯」ではなく「萃」の一字を以って肉月に接着せしめたのが秀逸だった。
「萃」が「あつまる」という意味を持った文字たることは、東方Projectに触れた方なら誰しもが知っているに違いない。――不羈奔放の鬼、伊吹萃香の名を通じて。
(Wikipediaより、宇田川玄真像)
斯くして漸く、「膵臓」という単語が世に
なんという紆余曲折の歴史であろう。日本人の創意によって新たに生まれた和製漢字、いわゆる「国字」について調べてみると、時々こういう遠大な逸話が思いもかけず芋蔓式に発掘されて面白い。
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