そのころの札幌市に、「ルンペン汽車」というものがあった。
なにしろ冬の北海道の寒さときたら、お世辞にも人間の生存に適しているとは言い難い。
家なく職なく寄る辺なく、やむにやまれず路上生活を営んでいる人々が、十分な防寒手当てを用意できるはずもなし。放置すれば、氷漬けの死体が街のあちこちに転がって、雪解けの季節に大いに住民を悩ます
戦慄すべき展開だった。
そこで道庁は対策として、札幌市内の適当な場所に汽車の客車を一つか二つばかり据え、中でストーブを焚いてやり、せめて風邪などひかぬようにと浮浪者諸子に無償解放することにした。
ゆえにこその「ルンペン汽車」。昭和十四年、農水省の調べに対し、喜多修吉経済更生課長が語ったところに依るならば、毎年二百人程度の利用者があったそうな。
二百人――。
相当な数といっていい。
しかしながら函館に比すれば、途端に取るに足らなくなろう。北海道のほぼ南端に位置するこの街には、毎年十二月になると、およそ二千人を超える喰い詰め者が雪崩を打って押し寄せてきたとされている。その様子を、「ルンペン作家」の下村千秋は以下の如くに書き述べた。
私は、昭和十一年の冬、北海道の労働者を調べた時に知ったのであるが、毎年の十二月になると函館へ集るタコの群が二千人に及ぶといふのであった。タコとは餓ゑればわが身を喰ふ蛸の名をそのまま持って来た喰ひつめ労働者のことで、彼等ははるか北の海から函館まで辛うじて辿りついたものの、津軽海峡を渡ることも出来ず、街をうろついてゐるうちにさまざまの犯罪を心ならずも重ねるのであった。しかもこれらの大部分は東北の善良な農民漁民達で、そして職業紹介所の手を経て来たものであったのである。(有馬頼寧編『農村現地報告』92頁)
品種改良もまだまだ未熟で、冷害の訪れにはひとたまりもない稲しかなかったこの時代。
東北六県――特に岩手・青森・秋田の三県に於ける農業は、五年のうち一年は大飢饉、二年が飢饉、残り二年が平作あるいは豊作という上代以来のサイクルを相も変わらず繰り返しており、百姓の窮乏は言語を絶した。
昭和九年の大凶作の情景は、ほとんど地獄と変わらない。
人々は木の実を採取し草の根を掘り、でんぷんを採取した後のカスみたいなジャガイモを喰って辛うじて命を繋いでいた。
こんな有り様なのだから、とても農業一本ではやっていけない。口減らしの意味も兼ね、農閑期には一家の大半が出稼ぎに出た。
女は主に南側、福井の人絹工場や、名古屋・静岡に在る数々の紡績工場へ。
男は反対に北側へ、北海道や樺太、カムチャッカ半島に漁夫として、或いは森林伐採の杣夫となって。
それぞれ旅立っていったのである。
その周旋を一手に引き受けるのが、職業紹介所という官製機関に他ならなかった。
(秋田県七滝)
が、この機関。悪い意味での役人気質がもろに出ており、看板以上の仕事は決してしない。
彼らはただ口利きを行い渡りをつけるというだけで、それ以後のことにはてんで無関心なのである。賃金、待遇、労働時間に関しては、管轄外と取り合わず、悉皆向こう様の為すがまま。
放り込まれた労働者を煮て喰おうが焼いて喰おうが、すべては雇用主の胸先三寸というわけだ。悪徳業者にとって、これほどありがたい社会システムも珍しい。
数えきれないほどの人々が、締め木で圧搾される菜種のような目に遭った。
その果てが、函館の街で冬季うごめく「タコ」の姿というわけである。
家計を支えるどころではない。
舳を噛む北海の怒涛に弄ばれて生死の境を彷徨しながら、その報いが雀の涙。津軽海峡を渡る船賃すら捻出不能な、お寒い懐事情とは、馬鹿にするにも限度があろう。
(人界にあるべき沙汰事ではない)
腸の底が煮えくり返るような怒りを覚えた下村千秋。やがて秋田の某紹介所を訪ねる機会を得た彼は、この際だ、渦巻く憤激を残らずぶちまけてくれようと、足音も荒く踏み込んだ。
ところが、である。
そこへ行って見て私は何にも言へなくなってしまったのである。戸外は吹雪いてゐる。狭い一室の中、ストーヴはあったが薪もろくにくべてゐない所で、五六人の所員が実に暗い顔を並べて事務を執ってゐたのである。所員達は、窓口へ群って来る農民達の周旋事務だけで疲れ切ってゐるのだ。それ以上のこと――労働時間や賃金や待遇問題で先方の工場主や資金家と談判するやうな仕事などは思ひも及ばなかったのである。私は先に、お役人的不親切といったが、この所員達は人に対する親切不親切など考へる余裕すらない、といふ有様だったのである。(93頁)
心に
貧しさの中では人間性すらみるみる痩せる。まことに寒いことばかり、だ。
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