『FINAL FANTASY Ⅶ REMAKE』を購入。
だが、コレを発売日に買っていいものかどうか、随分悩んだ。
『テイルズ』に於ける『ゼスティリア』と同様に、『ファイナルファンタジー』シリーズは『ⅩⅤ』によってその声望を大きく落とした。味噌がついた、といっていい。
この超特大の地雷二つを、私は両方とも踏んでいる。胸を高鳴らせて起動して、そして間もなく失意と絶望のドン底にまで叩き込まれたあの瞬間の感情は、忘れようにも忘れられない。
慙愧と後悔、憎悪と怨嗟。忸怩たる憤怒の激情に身悶えしつつ、思ったものだ。金返せ、と。
その後『ⅩⅤ』は挽回を期し、幾度となくアップデートを繰り返したが、焼け石に水に過ぎないであろう。
死体にいくら輸血を施してみせたところで――それが上位者の青ざめた血ででもない限り――鼓動が戻る筈もないのだ。「生まれるべきではなかった」という評価は、正しく『ⅩⅤ』のためにある。ゴースの遺子すら顔を背ける、最低の忌子。開発予定のDLCが打ち切られたと聞いたとき、正直私は心の底からほっとした。ああこれで漸く、見るに堪えない老醜の暴露が終わるのか、と。
(『Bloodborne』より、ゴースの遺子)
あれ以来、スクウェア・エニックスに対する私の信頼は地に堕ちた。そのソフトを発売日に、定価で購入することなど、金輪際有り得ないと考えていた。
しかし。
しかし、である。
『Ⅶ』だけは特別だ。在りし日の私をスーパーファミコンから引き剥がし、プレイステーションにへばりつかせる運びとなった、そういう運命的作品。
思い入れの深さは比較を絶し、抗いがたく私を誘う。その一方でこれ以上過ちを繰り返して堪るかと自制心に働きかける、理性からの声もあり、頭を掻き毟りたくなるほどの煩悶に私は悩んだ。
悩んだ果てに、もう一度だけ。
あと一回だけスクエニを、『ファイナルファンタジー』を信じてみることにした。
――『ゼスティリア』のあとの『ベルセリア』は、名作だったではないか。
そう言い聞かせた部分もある。
本当に、今度こそ、期待を裏切らないでもらいたい。ゲームをプレイするのに、何故こうも戦々恐々とせねばならぬのか。この暗澹たる感情を、一挙に払拭してくれるほど良い出来なのを期待するばかりだ。
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