封建の時代、貴人はたとえ死んだとしても、容易に
処世上の便宜のために、公式にはなお生きているものとして扱われる事例が屡々あるのだ。もっとも顕著な例としては、太閤秀吉が該当しよう。
慶長三年八月十八日、干からびた猿のようなこの小男が伏見城で最後の呼吸を終えたとき、玄界灘の波濤の先では彼の命によって「唐入り」のため派遣された将兵が明軍と睨み合っている最中であった。
その死がもし伝われば、戦う理由を失くした派遣軍の士気はいっぺんに挫け、反対に明軍はこの機逸すべからずと、嵩にかかって攻め寄せるに違いない。
よってその死は暫く伏せられ、太閤未だ存生なりと演出するため、様々な滑稽が演ぜられたものである。
これとよく似た情景が、幕末に於いても展開された。
井伊直弼のことである。
彦根藩藩主にして大老の重責を担うこの四十男が、しかし安政七年三月三日、季節外れの降雪のさなか、江戸城西ノ丸桜田門外で暗殺団の襲撃に遭い、一挙に黄泉路へ送られてしまったときのこと。
当然のことながら、彦根藩邸は鼎の沸くより凄まじい騒擾の渦に包まれた。
なにしろ主君が討たれたのである。
その首は胴から切り離されて、今は何処にあるとも知れない。
堪え難い恥辱であるばかりでなく、より差し迫った現実問題として、諸侯がこのような非命に斃れた場合、その藩は改易処分を受けるのが当時の武家の法度であった。
「なんということだ」
さすれば今でこそ屋根の下にて安穏と絹服を纏っていられる連中も、やがては立つ瀬を失って、みすぼらしい襤褸きれ姿で路頭に迷う運命とも限らない。
悩乱は、無理からぬことであったろう。
中でも未来を悲観しきった一部の藩士は、
――もはやこれまで。
と、逆に覚悟の
「どの道避けられぬ凋落ならば、せめて御家をかかる悲運に陥れた、水戸の狼藉者どもを一人でも多く道連れにしてくれようず」
水戸藩邸討ち入りという、激越にも程がある暴論を、しかし座り切った眼差しで主張しはじめる始末。事ここに至って、幕府としても捨て置く訳にはいかなくなった。閣老を招集、額を寄せての評議が行われた結果、
「兎にも角にも、連中を窮鼠にせぬことだ」
そのように方針の一致を見、さっそく目付が派遣され、藩士の軽挙妄動を戒めるとともに、「直弼、負傷」の届けを出さしむるべく取り計らった。
桜田門外で死んだはずの直弼を、イヤそんな事実はござらぬ、主人は手傷を負いつつも当藩邸で立派に生きて居り申すと偽証せよと奨めたのである。
藩士たちは、そのようにした。
すると間もなく将軍から態々侍医が遣わされ、患者を見舞い医薬を下賜する厚遇が。斯くの如き芝居を打って、幕府は「直弼存生」の体裁を取り繕うべく必死に外堀を埋めにかかった。
このあたり、太閤秀吉の例をなぞるが如き滑稽である。
が、伏見城の奥深くでごくわずかな人数に看取られひっそり逝った秀吉と違い、井伊直弼の死に様は、あまりに劇的過ぎるものだった。
白昼堂々、武家屋敷が軒を連ねる大通りの只中で、剣戟と怒声が飛び交う最中、駕籠から引き出されて斬られたのである。
隠し通せるわけがなかった。
真実は、腐った桶にそそがれた水より容易く漏れた。
幕府の偽装工作を嘲笑う落首や狂歌は日に日に増えて、手を施す術もない。それでも彼らは辻褄合わせを、たとえ満天下の失笑を買っても、最後までやり切らなければならなかった。
今も昔も変わりなき、勤め人の苦労と悲哀がうかがえる。
まず、水戸公の登営を停止し、竹橋、清水、田安、半蔵の諸門は役人の外、市民の通行を断然禁止。市内巡邏も増員し、万一の変への備えを敷いた。
それと並行して跡継ぎ不在の井伊家の継承問題を解決すべく、妾腹の子で
桜田門外の変から一ヶ月を経てやっと、井伊直弼は死ぬことを許されたわけである。
翌八日に彼の遺領は嫡子愛麿に賜るとの御沙汰が下り、藩士一同は改易の恐怖から解放されて、やれやれこれで一安心と久方ぶりに肩の力を抜く心地よさを味わった。
――それにしても。
と、思わざるを得ない。それにしても開府以来、このような目に遭わされた大老というのが直弼以外にただの一人でもいたろうか。
有村次左衛門の刀の先に突き刺され、現場から持ち去られた彼の首級は、その後遠藤但馬守の屋敷内に保管された。
探査の結果、それを突き止めたまではよかったが、「主君の首を返してくれ」と正直に申し出るわけにもいかない。井伊直弼は公式上、未だ生きているからである。その首と胴とが別々の場所に分かれていると認めては、折角捏ね上げた建前もいっぺんに土崩する破目となろう。
窮したあまり、彦根藩が捻出した口上は、もはや滑稽を通り越して悲愴の色すら帯びてくる。彼らは闘死した供廻りの中に直弼と背格好のよく似た男があったのを幸い、加田九郎太というその人物のものとして、件の首をなんとか引き取りおおせたのである。
直弼の首は、飯櫃に詰められ風呂敷包みで彦根藩邸に帰還した。
「こんな馬鹿な話があるか」
と、もし喋れたなら慟哭したことだろう。
若干十三歳にして家督を継いだ愛麿は、その後
のち、華族令にて伯爵に叙せられ、明治三十五年一月九日、五十三歳にて世を去った。
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