つい先日、「ママにあいたい」というフリーゲームをプレイした。
オープニングの時点で両腕を欠損している主人公が、母親にあいたい一心で、同じく色々と失っている兄弟姉妹の力を借りつつ、ひび割れや血痕の目立つ謎空間から脱け出そうと奮闘する作品だ。
劇中では「タネ」だの「受精卵」だのといった単語が飛び交い、おまけに時折、触れると即死な「カンシ」なる異形の存在が出現し、追いかけられる破目になる。
ここまで書けば、おおよその方が何事かを察するだろう。――このゲームが「何処」を舞台としていて、主人公は「何者」なのかを。
ゲームでここまで戦慄したのは本当に久しぶりだった。
この余韻が残っているうちに何か書きたい衝動に駆られ、その結果行き着いたのが表題というわけである。
(人魂のような物体が「タネ」)
中条流。
江戸徳川の時代に於ける、堕胎業者の
またの名を「女医者」とも呼ばれていたそうだから、成り手は女性が多かったようだ。
水戸の藩医・原南陽が享保のころ書き記した『叢桂亭醫事小言』という書によれば、中条流にかかる相場はおおよそ一両三分ほど。「店」に妊婦をあずかって、
この値段設定で、
罪な事 中条蔵を 又一つ
このように蔵を増築するほど儲かったというのだからおそろしい。
ついには金貸しに転業する輩まで出現したようである。なんという繁盛、なんという需要の高さであろう。
中条の 静かにくらす 恐ろしさ
かといって堕胎が重大な倫理的抵抗を伴うことは江戸時代でも変わらぬらしく、中条流は大通りの喧騒を避けた、どこか人目につかないところで店を開いていたようだ。
が、それでもなお「患者」としては玄関からは入りにくい。そこで店側も便宜を図り、
角道も 飛車道もある 女医者
中条は
中条へ 路地から来るは 四五回目
玄関以外の、たとえば勝手口等を解放しておき、より人目につかず入れるようにしたという。
踊子は 我一存で 二度おろし
短命な 子を踊子は 四五度うみ
中条へ 行くと傾城 安くなり
娼妓と中条流の関係の深さは言うを俟たない。
(Wikipediaより、吉原の遊女)
中条は 腹をへらして 飯を食ひ
外科でなし 本道でなし 不埒也
中条と 産婆生死の 渡世なり
斯くまで忌まれておきながら、中条流の看板が江戸から消え去ることは決してなかった。
快楽を求める人間のサガがある限り、彼らの繁盛も約束されていたわけだ。
中条流の方でも世間の批判に縮こまっているばかりではない。
中条は 此顔でかと 思って居
中条へ 息子けい母を つれて来る
案外、彼らは彼らで人の世を裏側から眺められるみずからの立ち位置を存分に活かし、その奇妙さ、不思議さ、馬鹿らしさに感じ入っていたのかもしれない。
伊勢の長者の茶の木の下で、
七つ小女郎が八つ子を生んで、
生むにゃ生まれず、おろすにゃ下りず、
向ふ通るはお医者じゃないか、
医者は医者でも薬箱持たぬ、
薬御用なら袂に御座る、
これを一服煎じて飲めば、
蟲も降りるし、子も降りる
明治の上半期まで東京の子女が口ずさんでいたという手毬歌。
これを添えて、今回の記事を閉じるとしよう。
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