1894年3月29日、東郷平八郎率いる戦艦「浪速」はホノルルを抜錨、日本へ去った。
彼から任を引き継いだのは、戦艦「高千穂」。艦長は野村貞海軍大佐。
世間ではあまり知られていないが、この野村艦長がハワイで見せた挙動には、ともすれば前任者を遥かに凌ぐ、ある種猛烈なモノがある。
(Wikipediaより、野村貞)
例を挙げよう。
着任から二ヶ月半後の、6月11日に於ける出来事だ。
ハワイ王国の創業者であり、旧王朝を偲ぶ者にとっては心の支えといって差しつかえのない、カメハメハ大王の誕生日に当たるこの日。野村艦長は「金剛」とも打ち合わせ、軍艦旗を挙げると同時に両艦一斉に満艦飾を施した。
去る1月17日には仮政府から如何に頼まれようとも東郷が拒否した飾りつけ。
艦首よりマストを伝って艦尾へと引き渡された数多の彩旗が、何を祝っているかは明白である。かつてハワイ諸島を統一し、この地に「国」を築き上げた偉大な王と、その血脈を尊んでいるのだ。
(Wikipediaより、満艦飾)
これだけでも仮政府へのあてこすりには十分なのに、野村貞はもっとやった。
その日の夕刻、彼は士官一同を艦長室に呼び出すと、「
「噂によると今夜旧王宮前の広場で、王党の連中が演説会を催して仮政府の攻撃をやり、時宜によると或は爆発するかも知れんといふことぢゃ。その
本国の、たとえば山縣有朋あたりがこれを聞けば、おそらくのけぞるほどに驚いたろう。
奇矯に過ぎるこれら数々の振る舞いの根には、彼が元・長岡藩士であることが深く関わっていたに違いない。
(Wikipediaより、冬の長岡)
野村貞は英雄・河井継之助の甥であり、北越戦争に於いては野砲半隊長に任ぜられ、さんざん官軍をてこずらせた筋金入りの武士である。
土佐沖を航行中、台風に巻き込まれた際などは、「総員死に方用意」と号令し、ひるみかけた船員の心を叱咤激励した漢だ。
某国砲台を見学したとき、その錆びているのを見つけるや、「この弾丸は木製か」と揶揄してのけた人物でもある。
『鐵桜漫談』の著者である小笠原長生は彼をして、「その風采といひ、気質といひ、何所までも東洋的豪傑の典型」と評し、
若し彼をして西隣にでも生れしめたなら、張作霖の向うを張って、東三省を掌握する位は易々たるものであらう。(30頁)
と激賞している。
話を、1894年6月11日の夕刻に戻そう。
このとき野村艦長から「過激派の集会に顔出してこい」と勧められた士官の中に、八代六郎の姿がある。
後の男爵・海軍大将もこの時は一介の大尉に過ぎず、したがって、
――万が一にも兵学校に入れなければ侠客になる。
と豪語した少年時代の血の気の多さを、まだたっぷりと残していた。
着港間もなく、同じく「高千穂」に乗っていた長生に向かって、
「廃王リリウオカラニを
と誘ったほどの彼である。
艦長の許しを幸い、勇躍して集会に向かった。
(Wikipediaより、八代六郎)
しかし、結果から言えばこの集会。「高千穂」の軍人たちが期待したほどのものにはついに成り得ず、八代大尉は深い失望を味わって、二度三度頭を横に振る以外どんな感想も漏らすことなく、唇を真一文字に引き結んだまま艦に戻ることになる。
その夜の王党演説会なるものが、相当激越なものもあって、一時は聴衆中から呼応者でも出るかと思はせたが、仮政府の取締厳重のためでもあったらう。何事も無くして夜半散会を告げた(34頁)
そのころ、「高千穂」上には触れれば切れてしまいそうな、粛殺たる気が満ちていた。
野村艦長は艦橋に在り、手にした双眼鏡で陸の様子を頻りに確かめているし、上甲板には陸戦隊が出撃準備を完了させて、命令あらばいつでも飛び出せるように待機している。
そこへ八代大尉一同が帰艦して、目撃した一部始終を報告すると、艦長はさも不興気に、
「そうか、どうも仕方がない」
と呟いて艦長室に降りていったが、やがて従卒に酒を持って来るよう命じる声が聞こえたという。
(ハワイ、イオラニ宮殿)
ついでながら触れておくと、王政復古を目指すハワイ先住民たちは、この後確かに蜂起した。
しかしながらそれは日本の軍艦が去って久しい1895年1月6日の出来事で、しかも二週間足らずで鎮圧されたため、風の便りにその話を耳に挟んだ野村貞は微苦笑して舌打ちし、
「なんだ今頃やったのか、先月開けた
と小洒落たっきり、あとは何も言わなかった。
後年、同じく長岡出身の山本五十六が海軍を目指すに至った動機は、この野村貞の影響が大きかったとされている。
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