穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

ゴールポストを動かす国 ―事大主義の毒―

 

 

 前回の記事、「豊臣秀吉の同化政策 ―文禄の役前夜譚―」の続きである。

 


 関ヶ原の戦勝により一挙に天下の権を掌握した家康の背には、至極当然の流れとして前の天下人である秀吉の起こした対外戦争の後始末まで継承することになる。
 なにしろ秀吉という男は、大明・朝鮮のみならず、ルソン(フィリピン)・ゴア(インド)・台湾にまで、


「おれに入貢しろ、さもなくば武力に訴える」


 という趣旨の書を送り付けていただけあって、緊張は東南アジア一帯にまで広がっており、これを緩和するのは容易ではない。


 なかでも実際に兵が彼の地に押し渡り、戦火に焼かれた朝鮮の悪感情たるや如何ばかりか。この半島国家との国交回復を、主に地理的な関係から対馬を領する宗氏に託した家康だったが、その試みは決して順調とは言い難く、むしろ開始当初は明らかに絶望の色を帯びていた。


 なにしろ使者として渡海せしめた宗家家中の人間が、いつになっても帰ってこない――連絡すらなしのつぶてという事態が三度も続いた。


 それもそのはず、送り込んだ使者たちは、半島に駐留していた明の将により捕縛され、北京に送られていたからである。その後、彼らがどのような運命をたどったかは――まあ、察しの通りであるだろう。


 宗家当主、宗義智は戦慄した。これは不可能事ではあるまいか。

 

 

Sō Yoshitoshi

Wikipediaより、宗義智

 

 

 石地蔵を口説いて彼の頬を赤面させろと言われた方が、まだしも希望を持てたろう。


 が、家康に対して泣き言を垂れるのは許されない。


 去る関ヶ原の戦いにて不覚にも西軍に属してしまった義智には、その点に於ける負い目がある。にも拘らず所領を安堵されたのは、ひとえに朝鮮との交渉能力を見込まれたからであるだろう。


 多少なりとも政治感覚を有する者ならこれは当然見抜ける意図で、むろん義智は痛切なほど自覚している。逆に言えば、もしここで対朝鮮外交に無能を晒せば、家康は容赦なく彼の首を切るだろう。


 第四回目の使者を派遣する宗義智の心境は、悲愴そのものといっていい。


 が、天は未だ義智を見棄てていなかった。石田甚左衛門なる第四回目のこの使者は、無事朝鮮の返事を得て帰還することが出来たのである。


 その内容は要するに、


「もし和好を欲するのであれば、まず其方から誠意を示すことが筋であろう。具体的には捕虜になっているわが国民を返すことだ。後事を話し合うのはそれからである」


 というものだった。


「もっともなことだ」


 宗義智に異論はない。
 早速、その手筈を整えた。

 

 

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 みずからの権限で集められるだけの朝鮮人俘虜を掻き集め、井田六左衛門智正なる人物を責任者として、陸続これを送り返していったのである。それに際してこの「俘虜」たちに、新たに日本の支配権を掌握した徳川家康という人が、如何に朝鮮・大明との平和友好を望んでいるか説き聞かせるのも忘れなかった。


 およそ、涙ぐましい努力と言える。


 これだけ骨を折ったのだから、なにがしかの酬いがあって然るべきであるだろう。ところがやがて朝鮮から送られてきた返答は、義智の想像を大きく裏切るものだった。
 彼らはまず義智の努力を


児戯に類する


 と嘲笑い、続いて述べた内容ときたら物凄い。


「そもそも壬辰以来天朝将を遣して、我が国事を治めしめて、細事と雖も自ら専らにするを得ず。況や講和の如き大事に於いてをや。ただ、足下深く旧悪を改め、誠を尽し、天朝をして疑う処なからしめれば、和議は成るべし」


 文禄・慶長の役以来、我が国には明国から「鎮将」なるものが派遣され、この将軍が国事一切をつかさどり、朝鮮人自身はどんなに些細なことでも彼にうかがいを立てねば実行できない。ましてや講和などという一大事を処決できるわけがないだろう、物の道理を弁えよ――。


 いやはや、何と言うべきか。本来死にたくなるほど屈辱的な事柄を、ここまで威丈高に上から目線で物語れるのは、ある意味才能かもしれない。


 流石、国名まで宗主国様に決めてもらった民族は言うことが違う。

 

 

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 しかも輪をかけて滑稽なのは、これが必ずしも朝鮮の本意でなかったことだ。


 実のところこの当時、朝鮮国民を悩ませていたのは明国から派遣されて来た数多将兵の乱暴狼藉に他ならなかった。


「好鉄不打釘、好人不当兵」の格言が示す通り、古来より大陸では人間の屑に武器を握らせたモノを「兵士」と呼ぶ伝統ならわしである。


 規律ある態度など、当然望むべくもない。


 彼らが半島に於いて如何に横柄にふるまったかは、多くの史料がこれを裏付けるものであり、我が国で編纂された『当代記』にさえ、


「自明朝高麗に人数を置、彼番手の衆狼藉不可勝計、為之迷惑ス」


 と記されているほどである。
 よって日本との間に緊張緩和が成るのなら、朝鮮としてもこれは望むところであったのだ。和好が確かめられたなら、必然として明の鎮将は居る意味を失い、本土へ引き揚げてくれるだろう。

 


 が、しかし。

 


 しかし、である。中華思想に頭のてっぺんから爪先までどっぷり浸かり、思想がもはや骨肉と化している朝鮮としては、気が狂っても日本に愛想笑いなど浮かべられない。

 高圧的な態度に出なくば、自我が崩壊するのである。


 これはもはや彼らの抜き難い体質であり、十七世紀の当時から二十一世紀の今日まで、一ミリたりとも変化していない生理なのだ。そのことは昨今の「通貨スワップ「GSOMIA」絡みの報道を見ればたちどころに瞭然たろう。


 自縄自縛の見本といって構わない。


 そしてこういう下らぬ駆け引きを打ってるうちに、日本にとって朝鮮がどんどん重要でなくなってゆくということも、また今昔分かたず軌を一にするところである。

 

 

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 そもそも家康が朝鮮との国交修復を望んだ主な理由は、対明貿易の仲介役としてかの国を利用したかったからに他ならない。
 戦火に焼かれた朝鮮の人々に同情したとか、そういう湿っぽい感情が立ち入る余地は一切ない。彼の眼中、ただ実利だけがあった。


 だから明の交易品を入手するには、オランダポルトガル、そして何より大英帝国といった、所謂「南蛮国」を介した方がずっと話が早いと判明すると、しぜん彼の中で朝鮮の重要度は下がってゆくことになる。


 この「発見」には、『仁王』の主人公のモデルともなった三浦按針ことウィリアム・アダムスの周旋があずかって大きく力ある。家康の外交顧問として取り立てられたこの元漂流者は、リチャード・コックスに代表される英国商人に日本の国情を詳しく教え、


「ヨーロッパの品物を日本に持って来てもさしたる利益は得られない。それより支那だ、ここでは支那の貨物の売れ行きが甚だよろしい。だから英国の船が来るにしても、まず支那に寄港し貿易をして、その貿易品を日本へ持ってくるのがいいだろう」


 と効果的なことこの上ない忠告をしている。
 その結果が、駿府城に積み上げられたあの膨大な交易品であるだろう。

 

 

WilliamAdams

Wikipediaより、ウィリアム・アダムス) 

 


 実に歴史は繰り返す。江戸期を通じて日朝関係は朝鮮通信使という見かけだけは壮麗な――しかも幕府の出資によって態々美しくしつらえられた――行列により象徴されるが如くであるが、この連中が何か実のある外交交渉を営んだことなど一度もなく、ただ諸侯や民衆の目をおどろかせ、幕府の威権を改めて思い知らせるだけのために活用されたに過ぎなかった。


 幕府の財政が悪化して、このような「余計な装飾」に使う金が勿体ないと看做されると、通信使の往来も熄んだ。


 列島人と大陸人の意識の差はよほど巨大なものであり、これを越えるのは決して容易な業でない。しみじみ実感させられる。

 

 

脱亜論 (現代語訳) +時代背景解説

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