彼は歴史の梶をその手に握った男であった。
ハーバート・ヘンリー・アスキス。
第一次世界大戦勃発当時、大英帝国の首相を務めていた人物である。
(Wikipediaより、アスキス)
結果的には彼の指揮するところによってイギリスはドイツに宣戦布告するのだが、この決断は、並の神経で下せるものでは決してなかった。
なにしろ、世論どころか内閣までもが和戦をめぐって真っ二つに割れている。
平和論の急先鋒は自由党の長老株にしてアスキス個人としても敬愛するところの深いジョン・モーリー枢相。開戦となれば彼は即刻辞表を叩きつけるに違いない。
かといって、モーリーの意見を容れて絶対不干渉を貫くと言えば、今度は「政治家としての」アスキスが最も頼りにした男――エドワード・グレイ外相に絶縁状を叩きつけたも同然になる。
ロンドンの銀行団は平和論に傾いている。
闘争心の権化たること火の玉の如きウィンストン・チャーチルは、今すぐにでも開戦しようと気焔を上げまくっている。
とてつもない板挟みを強いられたアスキスの心労たるや、まったく想像の外である。
最後通牒を突き付けられたドイツ国民は呆然とし、やがて立ち直るやイギリスの奸智を口々にののしり、書店を襲って英語の本を引っ張り出しては街路で滅茶滅茶に引き裂くというパフォーマンスで自分達の怒りを表現したが、この決断はアスキスにとっても我が身を引き裂くに等しい苦痛の伴うものだった。
案の定、最後通牒を送ると同時に、モーリーを含めた四人の閣僚が辞表を携えてやって来た。アスキスは懸命にこれを慰留せんと試みて、うち二人の説得には成功したが、モーリーと労働党出身のジョン・バーンズはあくまで己が所信を貫き、この内閣から去っている。
(Wikipediaより、ジョン・モーリー)
平和派は去り、いよいよアスキス内閣は戦争遂行に邁進してゆくこととなる。
ところがこれで閣内の意見衝突が終熄したわけではない。見方によっては、ますますひどくなったとさえ言える。
新たに起用されたキッチナー陸相、及びフィッシャー第一海軍卿の両名が、閣内の「ある人物たち」と深刻な性格的対立を惹き起こしたのが主な原因であったろう。
その人物とは、まず蔵相のロイド・ジョージ。
そして何より、狂犬よりも狂犬らしいあの男、ウィンストン・チャーチルその人だった。
この頃のアスキスの日記には、よくチャーチルの姿が登場する。
アスキスは自分より一回りも若いこの猛烈な性格の持ち主を常にウィンストンと呼び捨てにして、恰も長兄が末弟に接するが如き雅量を以って記したという。
試みにその部分を抽出すると、
八月四日 最後通牒をドイツに送る。その期限は今日の夜半をもって終る。(中略)ウィンストンはもうすっかり戦争気分で、明朝早晩ゲーベン号を撃沈しようと手ぐすねを引いている。
ドイツ海軍の巡洋戦艦、モルトケ級の二番艦たるゲーベン号。
ドイツ地中海艦隊の旗艦たるこのフネこそが、開戦当初に於けるチャーチル第一の獲物であったようである。
八月五日 キッチナーを陸相とす。(中略)ウィンストンはゲーベン号のことを考えて、涎を垂らしている。しかし同艦は未だ所在不明だ。(後略)
八月十一日 長き閣議。その大部分はウィンストンとキッチナーの話で占領された。ウィンストンは軍略の専門家の如く語り、キッチナーはアイルランド問題の専門家のごとく語る。
八月十七日 ウィンストンは戦意勃々、ダータネルス海峡に水雷艇を送り、トルコ港に逃げ込んだゲーベン号を撃沈せんと息巻く。
この「ゲーベン号のトルコ港逃げ込み」の一件こそ、ドイツがオスマントルコを自陣営に引き込む決定的な要因となった。
八月十八日 ウィンストンは只今、水雷艇二隊を以って、北海海上のドイツ艦隊を追い廻し中なり。日没までに全部撃沈の計画。
この下りからは、一心不乱に骨の玩具を追いかけ廻す飼い犬を見守る飼手のような温情味ある雰囲気が、どこかしら感ぜられるものである。
八月二十六日 ウィンストンは陸戦隊をベルギー海岸に上陸せしめて、ドイツ陸軍と戦わんとて閣議にて大騒動す。
九月九日 冒険好きのウィンストンは、只今出発フランス海岸ダンケルクに赴く。彼の飛行根拠地視察のためなり。
極めて運命的な地名が出た。
ダンケルク。
二十六年後、この地に於いて押し寄せるナチスドイツからの大規模撤退作戦が、しかも首相たる自分の命令で執り行われることになろうとは、よもやチャーチルとて夢にも思わなかったに違いない。
(Wikipediaより、ダンケルクから撤退するイギリス軍)
十月五日 今日二個の悲喜劇起こる。ベルギーの陸戦隊視察中のウィンストンより電報あり、内閣を辞して、陸戦隊司令官として従軍したしとの懇請である。彼の精神を謝し、その申出を拒絶す。
ブルドックの異名に不足なし。普通なら脚色を疑うところでも、チャーチルならばと素直に納得出来てしまう。
前線の匂いを嗅いだあまり、血が騒いでどうにもならなくなったのだろう。如何にもチャーチルらしい突飛さだ。
十月(日付無し) キッチナーの新編成軍の話を聞きて、ウィンストン涎を流す。彼は、おおよそ二十五年前の旧知識しかない士官達にこの大軍の指揮はとても安心して
こんな男が重鎮であれば、そりゃあ衝突の一つや二つ起きるだろう。
まったくこの時の「悪口の数々」を書き止めておかなかったのは惜しい限りだ。そうすれば今頃、チャーチルの言行録がもっと分厚くなっていたに違いないのに。
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