松尾芭蕉の面上に、老いの影が深くなりはじめた頃のこと。
弟子のひとりが彼に向かって、
――今まで詠んだ句の中で、辞世にしても差支えのない名吟は幾つありや。
といった趣旨の問いを発した。
これを聞いた俳聖は、しばらくその弟子の顔をじっと見つめて、やがて
「さても無益なことを訊くものかな」
と呟いたという。
「今日の俳句は今日の辞世、明日の俳句は明日の辞世ではないか。わが生涯に云い棄てし句に一句として辞世ならざるはない」
芭蕉が如何に研ぎ澄まされた死生観の持ち主だったか、刻明にあらわす逸話であろう。
死を日常のものとして、常に意識の俎上に載せておく。
新たな一日を迎える度に、「今日が人生最後の日だ」との心構えで臨んで、一分一秒たりとても決してゆるがせにせず過ごす。
濃い人生を送るための要諦だ。確か『葉隠』にも類似の下りがあったように思うのだが、どうであろうか。
いずれにせよ、当時の日本人らしい考え方に相違ない。二日酔いで脳が死に、ろくに読書も出来ぬまま、気付けば茜さす空を呆然と見上げる破目に至った本日只今の私には、なかなか堪えるエピソードである。
もし唐突に今日が人生最後の日になりでもしたら、私はさぞや狼狽し、そして後悔するだろう。
とても芭蕉のように清澄な心持ちではいられまい。酒は呑んでも呑まれるな、正体をなくすほど呑むべきではないと再三にわたって学習しているはずなのに、何故こうまでも繰り返すのか。
酒呑みも、この古川柳ぐらいの心境に至れたならば、きっと一流なのだろうけど。
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