――何十年かぶりに、東京からでも富士の高嶺がありありと拝めた。
古老をして斯く言わしめたほどに、地上物の一切合財を破壊し尽くした関東大震災。
大正十二年九月一日に発生したこの未曾有の災禍を受けて、時の首相・山本権兵衛率いるところの内閣は「復興に勝る供養なし」のスローガンを打ち出すと、それが看板倒れに終わらぬように様々な政策を発動。
たまたま焼け残っていた、当時の横浜社会館の建物をして「臨時震災事務局神奈川県救済病院」なるものの開設場所に充てたのも、その政策の一環とみて差し支えない。
震災による傷病者を広く収容したこの病院にて目まぐるしく働く医師たちの正体は、やはり同じく震災によって自分の医院を焼き払われて、まったく無一物の境遇に陥っていた市内の開業医並びに歯科医数十名だった。その纏め役、すなわち院長として抜擢されたのが、先日の記事で言及した野球好きの歌人外科医・渡辺房吉その人だったのである。
彼の指揮下、医師団は一致団結して治療の道に邁進した。
そんな彼らの頭上に思いもかけぬ栄誉が舞い落ちてきたのは同年十一月五日のこと。渡辺院長自身の自身の筆跡を借りるなら、「私共の病院へ、畏くも只今の皇太后陛下、当時の皇后陛下の御行啓を仰ぎ奉るの光栄に浴することを得たのである(昭和九年、渡辺房吉著『老医の繰言』280頁)」。
(Wikipediaより、大正皇后)
そも、皇后陛下が被災民慰問を行ったのは関東大震災に於ける大正皇后が初めてのこと。
九月十五日のその歴史的瞬間から未だ二ヶ月も経ておらず、渡辺院長以下病院関係者一同が受けた衝撃たるや、それが既に常態化した今日の我々には到底計り知れないものだ。
その日の情景を、渡辺院長は次のように書き綴っている。
院内一同は感激に満ち、御奉迎の光栄と歓喜とに溢れ、前日来病室は更なり、廊下、天井、窓硝子、電燈等に至るまで清潔の上も清潔にし、仮りの御休憩室には殊に細心の注意を払ひ、壁、窓、床面等すべて厳重に消毒せりき。(中略)其の日はまだきより出勤して、更に幾度びか病院の内外を見廻はり万端手落ちなきを確かめぬ。かくて午前九時三十分院内職員一同は長く両列に居並び謹みにも、慎み畏みにも恐みて、至慈至愛なる国母陛下を奉迎しぬ。(同上、282~283頁)
一文字一文字、隅から隅まで感激のみなぎらざるところなき文章といっていい。
しかも渡辺院長のこの感激に、大正皇后は完璧以上に応えてくれたというのだからもうたまらない。陛下が見せた所作挙動、その悉くが慈母としての哀憐の情の結晶であり、案内を終えた後じきじきに、
「病人の為めに盡くして下さい」
との御言葉を賜ったときには、爆発する無上の歓喜と誇りの衝撃に、あやうく渡辺の心臓は停止しかけた。
(Wikipediaより、九月十五日、被災者を慰問する大正皇后)
門前に再び陛下を奉送し終えると、未だ粘膜の内側を強く疼かせる熱さに従い、渡辺房吉は猛然たる勢いで筆を走らせ、幾首かの歌を書き付けている。
恐れかしこみておん前に出づ
遠くゐておろがむだにもかしこきを
おん前ちかく我が召されたる
畏くも国つみははのおん前に
我さぶらひて
民草をいたはらせ給ふ御言葉に
いらへまつらぬ
失ひし家も宝も何ならむ
今日の我が身のこのほまれはも
彼が皇室を礼讃し、その
大和男子には古来より、こういう型が確実に存在し続けている。その最大例は、流浪の後醍醐天皇に
「われをたすけよ」
と肩をたたかれただけで感奮し、この君のために死ぬ
渡辺院長もまた、大正皇后から直々に玉音を賜った。
楠木正成と渡辺房吉。両者の脳内で同パターンの電気的作用が発生していたと考えるのは、いささか牽強付会が過ぎるだろうか。
渡辺はべつに、次のような歌を作ってもいる。
日本国民のほこり
一
あまつ日は とはにうらら
やま川は さらにきよら
あめの下 くにはあれど
かかるくに ほかにありや。
二
すめらぎの みいづ高く
あめのむだ 極みあらず
地のうへに きみはあれど
かかるきみ ほかにありや。
三
我がきみは 神のみすゑ
我がくには 神のみくに
いにしへゆ この国民
四
このくには 我らのくに
このきみは 我らのきみ
このつちに 我らうまれ
この民の ほこりもてり。
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