その日、彰義隊は一人の商人を詰問していた。
元乾物屋で、黒船来航を機に今後鉄砲の需要が高まると見抜き、見抜いた以上ははやばやと鞍替えして神田和泉通りに銃砲店を開いていた男である。
名を、大倉喜八郎。
建設、化学、製鉄、繊維、食品等々、数多の事業を日本に興す、後の大倉財閥創始者であった。
喜八郎の何が彰義隊の気に障ったかと言うと、彼が官軍に対して盛んに銃器を卸していた点である。
自分たち彰義隊の影響下にある江戸の商人でありながら、その敵手たる官軍を利するとはなにごとか。あまりに不届きではないか、と、裏切者を糾弾するにも似た烈しさで喜八郎を責めたわけだ。
この当時、彰義隊の威勢というのはたいへんなもので、駐留する官軍の将士をときに斬り、ときに愚弄し、彼奴らが如何に見掛け倒しのつまらぬハッタリ野郎に過ぎぬかをさんざん江戸市民に暴露していた。
市民にしても、もとより徳川将軍家のお膝下で生活していただけあって、この前時代の権力者に同情する気分を極めて濃厚に持っている。
彼らは彰義隊の一連の振舞いを「義挙」と認めて称賛し、官軍と名乗っているあの連中とて、いまに堪え切れなくなってこの江戸から尻尾を巻いて逃げ出すものに違いない、と、半ば期待を交えながら予測していた。
そうした空気の渦中にあって、官軍に銃を与え、これを強化する一助を為すという行為がどんな眼で以って見られるか、想像するに難くない。
喜八郎を連行するのに、彰義隊は何の疑問も覚えなかったろう。
彼らは大義を背負っている。奸悪なる薩長めらを中核として構成された新政府の魔の手から、徳川家を
そうした敵意に囲まれて、返答次第では首が胴からコロリと落ちるとはっきり理解しながらも、
「私どもは、商人ですから」
大倉喜八郎は、悪びれずタンカを切ってのけた。
「どっちが官軍で、どっちが幕府方かわかりませぬ。商人は金さえ頂ければ誰にでも物を売るのが生業でございます」
おそるべき商業道徳といっていい。
当節、官軍は錦の袖章を象徴として、一目で見分けがつくようにしていたのだが、「商人」たる喜八郎はそんな部分に目もくれず、ひたすら銭のみに注目していたと言うのである。
更に驚くべきことは、これを受けた彰義隊の詰問者が、
「なるほど、その方の言い分は尤もだ」
と、ひどく晴れやかな顔をして、喜八郎の語る商人像に全面的な納得を示したことであったろう。
その上、「それでは当方からも注文する」とその場で三百挺の新契約が成立し、喜八郎はさっそく横浜に早駕籠で鉄砲を仕入れに向かったというのだからたまらない。
こういう胆力の塊みたような男なればこそ明治七年にはもうロンドンに支店を設け、ゆくゆくは大倉財閥を築くなど、目も眩むような栄達の道を駈け登ることが出来たのだろう。
が、上記のエピソードは喜八郎の豪胆さを示すと同時にもう一つ、名も知れぬ彰義隊士の高潔さをも証明している。
彼は武力にまかせて喜八郎に自分の都合を押し付けることをしなかった。
そういうものかと商人の在り方を受け容れて、きちんと相手方の流儀に則り望む品を手に入れた。
無礼者め、とか、忠義を解さぬ人非人、だの、出来の悪い大衆小説に登場する小悪党が好んで口にするような、そういう観念的な文句を厘毫たりとも吐かなかったのだ。
無限大に自己肥大を起こしていても不思議ではないこの状況下で、見事に自己を抑制している。
なかなか出来ることではない。武士として、よほど厳格に躾けられたのだろう。
こういう精神美こそ、あらゆる芸術品の中で最も価値のあるものだ。やはり武士は素晴らしい。
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