『南洋狩猟の旅』に描かれているのは吉村九一と猛獣たちとの、狩るか狩られるかの壮絶な闘争ばかりではない。
舞台となった南洋の島々――そこに生きる、所謂原住民たちの暮らしぶりの描写にも、少なからぬ紙面を割いているのだ。
中でもかつての人食い族、ニューギニアのカヤカヤ族についてはことに詳しい。
カヤカヤ族は、ほとんどみな、身長二メートルはあらうか、じつにみごとな體をしてゐる。はだかの胸に、貝がらや、きばをつないだかざりをたすき十字にかけ、耳輪を下げ、鼻の両穴から中心に穴をあけ、十五センチくらゐの棒をさしこんでゐる。男だか女だか見わけがつかぬ。(『南洋狩猟の旅』64頁)
カヤカヤの母親たちは、貝や魚をとる時には、その子供を、海岸の砂の中へ首だけ出してうめておく。子供は、まるで砂から生えた大根のやうに、泣きもせず、おとなしくうめられて待ってゐる。(同上、66頁)
なにやら『ファークライ3』で見たことのあるような情景だ。
砂から出ている頭部を見て、魚貝類が油断するはずもなかろうし。マジナイの類だったのだろうか?
彼等の食物は、サゴヤシの幹にふくまれてゐるでんぷんである。それで、カヤカヤ人の部落は、このサゴヤシの茂ってゐるところにあるのである。しかし、病気がはやったり、ヤシを切りつくしたりすると、ほかのサゴヤシのあるところを求めて移って行く。(中略)カヤカヤ人が移って行く途中、ほかの団体に出あひでもすると、その部落の強弱をさぐって、自分たちの方が強さうだとみとめると、夜襲して女子供をうばひ、負傷者もひきさらって行って、食ってしまったといふ。(同上、66~67頁)
実に典型的な採集狩猟民の在り方だ。
むろん、食人行為も含めて、である。
洋の東西を問わず、原始人はほとんどみな
ジャン=ジャック・ルソーは原始時代を自由と平等の実現された、病気もなく、恐怖も薄い、現代よりも遥かに幸福な社会だったと定義し、そんな素晴らしき自然状態から社会状態へ移ったことで、人間はかえって自由を失い、平等なき身分の桎梏に苦しむ破目になったのだと高唱したが、どうもいくら時代を遡ってみたところで、彼の期待する理想郷など広がってはなさそうだ。
(Wikipediaより、ルソー)
「墓地」の存在から、無差別に喰っていたというわけではないのだろう。少なくとも同族には、よほどのことがない限り手を着けなかったのではなかろうか。
やはりカヤカヤ族と同様に、大森貝塚の住民達も、他部族や「群れ」からはぐれた流れ者を獲物としていたと見るのが良さそうだ。弱しと見ればとって喰う。これ以上自然の法理に適った在り方はない。
ルソーの考えた自然状態など所詮羊羹の蜂蜜漬けみたような、楽観に楽観を重ねた甘っちょろい理想論でしかなく、トマス・ホッブズの提唱した「万人の万人に対する闘争」こそ、人間の自然状態の本質に近いように思われる。
ちなみにカヤカヤ族の常食物たるサゴヤシだが、この幹から取り出されるでんぷんからは、今流行りのタピオカパールと酷似したサゴパールが作られる。しかも食品としての歴史は、タピオカパールよりもサゴパールの方が遥かに深い。
吉村九一も『南洋狩猟の旅』の中でサゴヤシのでんぷんとうどん粉を混ぜて焼いたビスケットのようなものを喰っており、「なかなかうまかった」と評している。
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