穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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デモステネスの大雄弁 ―上・修練編―

 

 ギリシャ文学の研究がホメロスを抜きにしては成り立たぬように、当時の雄弁を語る上で、どうしても避けて通れぬ名前がある。
 デモステネスがそれである。

 

 

Demosthenes orator Louvre

Wikipediaより、デモステネスの胸像) 

 


 この男がアテネの生んだ最大の雄弁家であることは間違いない。間違いないが、だがしかし、その政治的評価にあたっては、世評は屡々乱高下を繰り返してきた。


 ある時は祖国の自由と独立に最期まで殉じた英雄として。
 またある時は時代遅れな空想にとり憑かれ、大衆を煽動し、無謀な戦争に叩き込み、あたら多くの人命を失わしめた粗大漢として。


 時代による毀誉褒貶の移り変わりの甚だしさをこれほどまでにまざまざと味わわされた人物を他に探せば、それはきっと革命政権下に於いて「息子とさえまぐわうふしだらなオーストリア女」と軽蔑され、メッサリーナアグリッピナと同水準の「毒婦」と見られておきながら、いざ再び仏国が王政に復すや、たちどころに「犠牲心に富んだ聖女」として崇められ、「殉国の女王」として七彩の雲の中に祀り上げられた、かのマリー・アントワネットぐらいのものだろう。

 

 

Vigée-Lebrun Marie Antoinette 1783

Wikipediaより、マリー・アントワネット) 

 


 良くも悪くも、論議を巻き起こさずにはいられぬ男デモステネスは紀元前384年頃のアテネに生れた。


 少年時代の彼は専ら書に親しむを愉しみとし、体育の訓練などは別段受けていなかったと云う。しぜん、薄っぺらな胸板から絞り出される声量ときたら貧弱で、且つ舌が意のままに動かず、よくどもった・・・・
 絵に描いたような青びょうたんの姿であり、ここから後年の大雄弁家たる彼の姿を想像するのは予知能力でもなければ不可能だろう。

 


 転機が訪れたのは16歳の時だった。

 


 伝承によれば彼はこの年、ふとしたことからアテネの政治家カリストラトスの弁論を聴く機会に恵まれ、彼の巧みな身振り手振りや雄渾そのものな音声を至近距離から浴びせられたその結果、呆けるほどに魅せられて、まったく一大感動を発してしまったとされている。


 酒などものの数ではない陶酔が、いつまでも体腔の内側に痺れとなって残り続けた。


 斯くの如く人心を震わせ、大衆の思想と目的とを活殺操縦する芸術を、是非とも我も身に着けたいとデモステネスが願うのは、蓋し必然であったろう。


 ついでながらカリストラトスという、このスパルタとテーバイの勢力均衡の上にこそアテネ繁栄の道はあると信じていた政治家は、しかしこれから7年後の紀元前361年に政争に敗れ、死刑判決を受け、マケドニアに亡命している。
 後にデモステネスが不倶戴天の敵と看做すマケドニアに、である。
 何かしらの暗示を見出さずにはいられない。

 

 

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 それはさておき。


 勇奮措く能わざるして弁論家への道を踏み出したデモステネスだが、その滑り出しは必ずしも順調とは言えなかった。
 当たり前だ。人間は蟲ではないのである。昨日までのどもり・・・が、一朝明けるやあら不思議、蛹が蝶に化するがごとく、舌端火を噴かんばかりの雄弁家に変身しているわけがない。
 デモステネス最初期の演説は大失敗に終わったということで、数々の伝承は一致している。それは聴衆の、嵐のような野次と嘲笑を買っただけのことであった、と。


 しかしながらデモステネスは、


 ――おれは駄目だ。


 とは思わなかった。いや、仮に思ったとしても、その駄目さに甘んずる気は毛頭なくして、


 ――畜生、いまにみていろ。


 と、復讐への渇望が油然として湧き上がってくる性質たちであった。


 彼の精神を支配する、この比類なき反発力が如実に反映されたのが歴史に名高いかの「冠」演説だったろう。カイロネイアの戦いで見るも無残な大敗北を喫しておきながら、それでもこの男は「あの戦争は間違っていなかった」と従来の所信を一ミリも曲げず、ついにはそのことを聴衆に認めさせてしまうのである。

 


 まあ、先の話はこの辺にして。

 


 一敗地に塗れ、屈辱を味わったデモステネスはこれではならぬと自己の改造に取り組んだ。
 その激しさたるや、何かに憑かれたとしか思えない、聞くだに肌の粟立つものである。


 よく聞くのは、彼が地下に籠ったということだ。

 

 

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 文字通り、自宅の地面を掘り下げて部屋をこしらえ、そこで発声や表情筋のトレーニングを積んだのである。


 外の世界に誘惑されぬよう、髪を半分切り落としたとも言われている。なるほどそんな異様な髪型では、恥ずかしくて社交の場になど混ざりたくても混ざれまい。


 不退転の決意と言えた。


 デモステネスの発声練習としては、他に海に向かって叫び続けたというものがある。


 多島海の狂瀾怒濤が絶えず打ちつけ、白く泡立つこと沸騰した湯の如き海面を見下ろす岸頭に立ち、その轟音を貫き通す質の声を練り上げようと目論んだのだ。


 発音を矯正するため、小石を口中に含みながら喋る練習をしてもいる。


 嶮しい山坂を駆け足で登りつつ、しかも発声しながらそれを行うことにより、肺活量の増大を図った。


 自分の文体に更なる光輝を添えるべく、トゥキディデスの名著『歴史』を繰り返し筆写する試みもやっている。――これなどは、頼山陽史記項羽本記』を書き写し、文章能力を練った逸話と軌を一にするものであるだろう。
 天才の考えることは似るものだ。

 

 

Portrait of Rai Sanyo

Wikipediaより、頼山陽) 

 


 そうしてデモステネスは、少しずつ己を研ぎ澄ましていった。


 名声が上がるにつれて裁判関連の相談が市民から持ち込まれるようになると、デモステネスは必ずといっていいほどに、


 ――どうも話を聞いてると、大した損害ではないように思われるのだが。


 そのような口ぶりで、先ず素っとぼけたとされている。


 すると相談者はむきになって声を張り上げ、身振り手振りを交え、通電性の悪いこのにぶちん・・・・の脳味噌に自分の置かれた窮状をわからせようと必死な動作を繰り返す。


 その必死さこそ、デモステネスが欲していたものに他ならなかった。


 作り物ではない、本物の必死さ。その発露としての表情の変化、四肢の動作。
 それらを至近距離から仔細に眺め、観察し、みずからの演説技法に還元することこそ、にぶちんの仮面の裏側で、デモステネスが着々と進行させていた自己修練だったのだ。


 情熱も、ここまで来ると些か常軌を逸していよう。


 正気にて大業はならず。デモステネスもまた、立派な死狂いだったといっていい。

 

 

 

 

 


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