穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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兎の缶詰 ―『動物談叢』―

 

 紀元前も終わりに近づいたある日のこと。翠玉を溶き流したかの如くに光り輝く地中海の波濤を越えて、ローマ帝国の軍隊がバレアレス諸島に押し寄せた。


 現地からの、悲鳴交じりの救援要請に応えての出兵である。


 が、このたび島民を塗炭の苦しみに追い込んだ「敵」は、他国からの侵略者にあらじ。
 いやそもそも人ですらない。大繁殖して農作物に壊滅的な被害を与え、木々を片っ端から削り倒して恰も森を後退させるが如きおそるべき光景を現出させた、野兎こそが彼らの討伐対象だった。

 

 

Localización de las Islas Baleares

Wikipediaより、赤く塗られた部分がバレアレス諸島) 

 


 スペインの西の海上に浮かぶバレアレス諸島がローマの支配圏に組み込まれたのは、未だローマの政体が共和制であった紀元前122年のこと。
 以来この群島はワインに適した良質のぶどうを生産し続け、この地の農業の被害は、すなわちローマの食卓事情の危機だった。皇帝が即決即断といっていいスピードで軍隊の派遣を決めたのも、そうした背景に依るだろう。


 似たような話は、19世紀のオーストラリアにも存在する。


 元来、オーストラリア大陸に兎は棲息していなかったのだが、18世紀の末頃、兎狩り好きのイギリス人がその狩猟欲求を満足させるべく態々輸入し、各地に放ってみたところ、殊の外この地の環境が彼らに適していたらしく、またたくまに大繁殖して農業、牧畜、林業等に多大な損害を与えてしまった。


 農村はたちどころに餓えた。民衆はこぞって激怒して、この忌々しいみつくち・・・・の哺乳生物を地上から掃滅せしむべく、武器を手に取り追い回し、或いは落とし穴に代表される罠を拵え、柵を作って侵入を防ぎ、もっとも極端な例となると、家禽コレラをばら撒いて大量死を狙うという、バイオテロ紛いの手段にさえ訴えた。


 誇張抜きで、ありとあらゆる方法が試されたといっていい。


 中でも積極的だったのはヴィクトリア州で、ここでは州庁内に「害兎がいと駆除監督官」なる役職を設置し、莫大な費用を注ぎ込み、官民一体になって兎の駆除に邁進している。
 記録によれば、この機関が1877年から1886年までの約10年間に捕殺した兎の数は、捕りも捕ったり28704565頭。持ち込まれてから一世紀も経ぬ裡に、よくまあここまで殖えれたものだ。


 しかもこれだけ狩ったにも拘らず、結局オーストラリアは兎の増殖を止められなかった。1940年代には推定個体数が8億を超え、絶滅させられた豪州固有の動植物は数知れず。ダーウィンの悪夢とはこのことだ。現在でもクイーンズランド州などでは法令により兎の持ち込みが禁ぜられ、違反した場合最高で440万円相当の罰金が科せられるとされている。

 

 

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 少し、害獣としての側面ばかり語り過ぎた。


 兎が人間を益する要素についても触れるとしよう。何よりもまず、その肉が非常に美味だということだ。


 上野公園の名園長、黒川義太郎は兎を食べた感想として、

 


 脂肪質が少なく、淡白な質で肉の繊維が細かいから柔かで消化し易い。(中略)試に鶏肉と兎肉と、五分五分位に混入して御使用になれば、其肉味に鶏と兎の区別が付かないと思ふ。若し脂肪の強い方を望む場合には、家鶏の脂肪を多くお用ひになれば、其味はより多く鶏肉化すべく、又吸物などの材料としては其色白く、味淡白なれば最も相応のものと思ふ。尚病後の恢復期の食肉としては、脂肪軽く消化佳良なるの故を以て最大価値のあるものと思ふ。(『動物談叢』42頁)

 


 と、惜しみない賛辞を述べており、「それなのに私はなぜ人は此の肉を食はないかと思ふて不思議な位である」と首を傾げることまでしている。


 前述した如く、その繁殖力は旺盛で寒暑にも堪え、何でも食うから飼育するのは至って容易だ。私自身、通っていた小学校で兎が飼われていた覚えがあるが、べつに専門家の手を借りずとも、児童たちの世話のみで充分立派に育っていたものである。


 近年やたらと昆虫食が持て囃される傾向にあるが、虫より先に、まず兎を一般の食卓に上せる計画を立てたらどうか。


 欧州大戦後、一時期日本市場に出回ったと云う「兎の缶詰」をここらで復活させるのも悪くない。決して悪くない算段だ。

 

 

  

 

 


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