法廷に於いて、証人は陳述を始める前にまず宣誓を義務付けられる。その文言は国によってまちまちで、たとえば現下の日本国では、
「宣誓 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。(本人氏名)」
といった具合だ。
これがアメリカともなると、「良心」の代わりに「神」に真実の告白を誓わされ、しかも大統領が就任時にそうするように左手を聖書に乗せながらそれを行う。
1940年頃までのイギリスでは更に芝居じみていて、証人は宣誓の言葉を述べた後、聖書にキスするまでが決まりであった。これがために証言台にはそれ用の、コンパクトサイズの聖書が常備されていたものである。
ところが、北アイルランドに裁判所を設置したある日のことだ。証言台のこの聖書が、屡々盗難に遭うという事件が起きた。
たまりかねた職員が裁判官に相談すると、
「ひどいことをする連中が居るものだね。よろしい、これからは聖書を鎖で繋いでおくことにしよう。鎖で繋がれているところを見せてやれば、彼らも先祖のことを思い出して、悪事を思い止まるに違いない」
と、イギリス人によるアイルランド人観が浮き彫りになった発言をした。
アイルランド人は紛れもない白色人種でありながら、奴隷として船に詰められ海の向こうへ輸出されたという悲惨な過去をもっている。
それも百年以上の長期に亘って、何十万もの人間が、「商品」として「販売」された。
この「貿易」の担い手は、大抵の場合イギリス商人に他ならなかった。
裁判官の提案はその歴史を踏まえた上で痛切に皮肉ったものに他ならず、黒さに定評のあるブリティッシュジョークの中でも、特に抜きん出た暗黒ぶりであるだろう。流石はソ連の、
「共産主義実行の結果、我が国には一人の失業者もいない」
という公報に対して、
「英国でも刑務所には一人の失業者もいない」
とやり返したお国柄なだけはある。
ちょっと話がズレた。もう一つ、宣誓に因んだ奇談を述べよう。
やはりイギリス法廷で、証人台にペルシャ人が立った時のことである。このペルシャ人が、なんと聖書に対するキスを拒絶したのだ。
彼の弁じたてるところでは、自分の国で最も厳粛な誓約とは祭壇に牝牛を招いてその尻尾にキスをしながら行われるものであり、いと高き存在へ真実の告白を誓うなら、是非とも故郷のこのやり方に則りたいと肩肘張ってのけたのである。
が、しかしまさかイギリスの法廷に牛が常備されているわけがない。
何処かから調達してくるほかないが、さてその費用を負担するのは、原告被告のどっちに義務を帰するべきかと、法廷は本来の審議そっちのけで大いに揉めた。
このあたり、なにやら星新一のショートショートでも読むが如き感がある。
オチも上手く出来ているのだ。折衝能力に長けた判事がうまくペルシャ人を丸め込み、聖書の代わりにコーランにキスすることで宣誓の儀式を全うさせた。
最初からそうしろと言われそうだが、果たしてのっけから頭ごなしに、
「牛? 虚仮を言うのも大概にしろ、此処を何処だと考えてやがる、文明の中心、法の殿堂だぞこの馬鹿め。回教徒ならコーランにキスすりゃいいだろう、それで大目に見てやるぜ」
などとどやしつけたなら、果たしてこのペルシャ人は従ったか、どうか。
このあたりが異文化交流の難しさで、相手の文化を尊重する態度を見せねば上手くいかない。
自分の要求を野蛮な未開人の習俗と無碍に退けたりせず、あれこれ真剣に討議してくれたからこそ、この男も折れる気になったのだろう。そのあたりの力学を、イギリス人はほとんど本能の領域で心得ている。
三枚舌外交というのも、よほど手馴れていなくば叶わぬ所業だ。
悪辣さに憤るより、むしろ機略縦横たるその手管から学ぶべきであるだろう。
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