穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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高橋ダルマの手のひら返し ―後編・嗚呼無我天真の政治家よ―

 

 第三十第内閣総理大臣斎藤実という人は、どうやらかつての海軍大臣斎藤実とは別の人であったらしい。
 シーメンス事件で大臣職を辞して以来、久方振りに政治の表舞台へ舞い戻って来た彼を目の当たりにした人々は、一様にそんな印象を受けた。

 

 

Makoto Saito 2

Wikipediaより、斎藤実

 


 それは当時の鉄道大臣、三土忠造にしても変わらない。『湘南方丈記から三土の斎藤評を借りると、

 


 斎藤海軍大臣といへば、頭脳の明敏して思慮の周密なること、当時部内第一と称せられて居た。能く行政事務に精通し且つ勇往果断にして、採決流るるが如き概があり、其の上軍艦の建造、水陸連絡の設備に関する材料設計等に至るまで、詳細に研究して通暁せざる所はなかった。然るに斎藤子爵が内閣総理大臣になって後は、世間からスローモーションといふ綽名を附せられた。(24頁)

 


 内閣を成立させるのに五日間を要したことも、この綽名を発生させる一因となった。
 これは当時に於ける最長記録であり、常日頃から議会を「日比谷座」と呼んで芝居でも見に行くような態度で群がっていた記者連が、またぞろ面白おかしく書き立てたのだ。

 


 其の頃の斎藤子爵は如何にも悠揚迫らざるの態度を持し、又進んで自家の抱負意見を吐露することも極めて稀であった。是れ世人よりスローモーションと呼ばれた所以であろう。(同上)

 


 しかしながら三土はそんな斎藤実の姿を以って、「故大山元帥を連想する」と述べている。
 なるほど確かに、大山巌も若い時分は大砲の発明を企てて、手ずから設計図を引いたほどの「切れ者」だった。数十年間、一日も欠かさず日記をつけていたというのも綿密な性格を表している。

 

 それが日露戦争の頃になると、「盛徳あって容貌愚なるが如し」というような、大西郷を思わせる風貌へと変化するのだ。


 しかも晩年の大山は、決して見た目通りの愚人ではなかった。


「知っちょっても、知らんふりをすることよ」


 戦争中最も苦労したのは何かと訊かれて大山が返したこの一言が、それを完全に証明している。

 


 晩年の斎藤子爵も亦頗る之に類する所があった。本来聡明叡智なる人の極度に円熟したのである。昔より達人と謂ふのは、即ちこの種の人物に他ならない。(26頁)

 


 ――その斎藤が。


 持てる限りの人間力を傾けて、高橋引き止めの説得に臨んだのは昭和八年四月七日閣議であった。


 この閣議に出席するまで、高橋の意向が断固として辞職を貫く方針にあったことは紛れもない。それは三日前の同月四日に東京朝日の記者に対して、「蔵相の後任に適当な人物が居ないと言うが、君、わし以外に大蔵大臣の候補者が無い様ではどっちみち日本は亡びるよ」と語ったことからも明らかだ。


 一見、斎藤の挑戦は不可能事に思える。


 しかし、一つだけ有利な材料も存在した。第六十四議会に於ける予算案通過と高橋の辞職とを引き換えにするという、例の「鈴木高橋の黙契」を、斎藤が既に知っていたということだ。


 この点、鳩山も鈴木も斎藤実という男を甘く見過ぎていただろう。スローモーションの陰に隠れて、総理は諜報の網を広げるのに余念がなかった。


 流石は軍官僚、鮮やかな手並みといっていい。


 更に斎藤のおそるべき点は、この情報を握っていながら、それを正面切って高橋に突き付け糾弾するような真似はせず、どころか逆に何も知らないような顔をして、その実なんとか高橋自身の口から「黙契」の一件を漏らさせようと、暗に会話を誘導していたことである。


 高橋と斎藤は旧知の仲だ。
 個人的にも親しい友人関係にある。
 だから、どこをどう押せば高橋がどういう音を出すか、斎藤はよく心得ている。

 

 

Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together cropped

Wikipediaより、左が高橋、右が斎藤)

 


 真正面から行っては駄目だ。それでは高橋はへそを曲げ、いよいよ辞職の意を強くする。あくまでも黙契の一件は、彼自身の口から語らせねばならない。……
 果たして高橋是清は、面上に至誠をみなぎらせた斎藤実の呼びかけに段々抗うことが難しくなり、ついぽろっと、


 ――しかし、鈴木サンとの約束が。


 と、運命的な一言を漏らしてしまった。


 斎藤にとっては待ちに待った瞬間である。すかさずその約束とは何かと突っ込むと、ほどなくして高橋は黙契の一部始終をぶちまけた。ここまで来れば後は容易い。この契約を無効化する論法は、何日もかけて既に練り終わっている。


「これは高橋個人の私的事情で、政府の関係するところではない。この契約は政府を拘束する効力を一切有するものでない。よって閣僚たる大蔵大臣高橋是清もまた、そのために責任を負う要はなし」


 私人高橋と閣僚高橋の、あたかも高橋是清が二人いるかのようなどこか奇妙な論理だが、公私を切り分けて取り扱うこの考えは高橋のツボにはまったらしい。


(なるほど確かに、一理ある)


 と納得し、納得したなら高橋は早い。たちどころにその説の最も熱心な支持者になる。


「ああそうか、ぢゃア死ぬまでも御奉公しようか」


 さっきまで感じていた鈴木総裁を足蹴にする心苦しさなどけろりと忘れて、高橋は晴れやかにこう言った。

 

 


 政治は時に大いなる喜劇の舞台であるのは、高橋が史上最大級の手のひら返しを打ったこの閣議に、あろうことか「鈴木高橋の黙契」を成立せしめた黒幕たる鳩山一郎その人が、文部大臣として出席していたことである。


 目の前で自分の描いた筋書きが崩壊して行く有り様を見せつけられた鳩山一郎の顔色は、死人のそれと変わらない。


 閣議が終わるや鳩山は、まさに巣を追われた鳩そのものの狼狽ぶりで鈴木総裁のもとへと駈けた。
 閣議は本来、極秘扱いされているはずだが、斎藤内閣が成立した当初から鳩山文相がそんな「原則」を守った例がない。この時も親分の喜三郎に、洗いざらい注進した。


 案の定、鈴木喜三郎は激怒した。毛穴という毛穴から今にも血を噴きかねないその様は、どう見ても赤鬼そのものだった。


 政友会では既に次期内閣の名簿まで拵えて、高橋の辞任から連鎖的に発生する政変を心待ちにしていたのである。それをこの土壇場に来て一方的に反故にするたァ全体どういう料簡だ、それでも人か、人の皮を被った獣かと腹の虫がおさまらない。


 しかし、もっと凄かったのは偶々この場に居合わせていた小川平吉の方だった。この男は高橋の変節ぶりを裏切りだと憤り、世間に向かってその旨べらべらがなり立ててのけたのである。
 おかげで後世の我々にまで「鈴木高橋の黙契」なる単語が伝わったのは有り難いが、それにしてもこの人に防諜とか守秘義務とかいった観念はなかったのかと疑いたくなる。

 

 

Ogawa Heikichi

 (Wikipediaより、小川平吉

 


 ともあれ倒閣を狙った政友会の謀略が、これで明るみに出てしまった。
 世を挙げてたいへんな騒ぎが巻き起こり、貴族院議席を有する何某からは、


「一閣僚の進退についてこれほどの陰謀が行われたのは有史以来である」


 とまで評される事態となった。
 むろん、騒動の中心人物たる高橋是清を世間が放っておくわけがない。鈴木総裁を裏切ったことをどう思うかとあけすけに問う記者まで現れ、それに対する高橋の返答がまた凄い。


「わしが留任するしないはわしの勝手だ、政友会の倒閣の道具に使われて堪るものか」


 政友会の総裁を務めた経験さえ持つ男の口から、こんなセリフが飛び出すのである。


 尾崎行雄はかつて文芸春秋上に掲載された尾崎行雄に物を聞く会』というコーナーで、

 


 私の四十年の経験に依れば、日本で真誠の政党を作ることは非常に困難です。現在のやうなものを政党と思って居るのが元来間違ひです。あれは私党です。政党は公党でなければならぬ。日本には公党は出来にくい。幾らやって見ても出来ない。即ち党利を先にして国利を後にする。是は純然たる私党である。昔の言葉で云へば朋党である。是は国民が悪いためです。政党が党利を先にすれば、投票が減らなければならないのに、日本では却って殖えます。故に正しい人でも政党に入ると悪くなる。是は国民が悪いからです。悪くならなければ日本では政党を維持することは出来ない。悪いものでなければ国民は投票を入れないのです。

 


 と散々に政党政治家を貶したが、高橋是清は例外的に政党に入っても悪くならず、また党利よりも国利をこそ優先して動ける漢だったのだろう。


 だからこそ、政党からは甚だしく憎まれる破目になったわけでもあるが。

 

 


 鈴木喜三郎の高橋是清に対する悪感情が決定的になったのは、五月二十二日深夜に再び設けられた両者の会見に於いてである。この席で高橋は謝罪の言葉を片言半句も吐かなかったばかりか、


「そろそろ強情も止めにして、貴君も無任所大臣として入閣し、積極的に内閣を支持してはどうかね」


 と諭すように奨めてのけた。
 マキャベリズムの体現であろう。加害行為は一気にやってしまわねばならない。手のひらを返すなら返すで、これくらい完璧に返すべきだ。


 むろん、鈴木がこの誘いに乗るはずがない。腸は煮えくり返っている。


 ――このダルマ野郎、いけしゃあしゃあとよくもまあ。


 政治は感情であると云う。
 この俗説を如実に証明してのけたのが、翌二十三日の陽が昇るやいなや、鈴木喜三郎が絶叫した内閣との絶縁宣言であったろう。

 


 過去一年間の実績から見て、現内閣がこれ以上時局を担当する事は無理であり、恐らく議会後総辞職するものと思って来たが、首相は明年度予算も組み来議会にも臨む腹らしい。政友会としては到底現内閣に多くの期待を持てぬから、若し国民の納得するやうな政策が行へぬ事が分明すれば、その時に至って党出身閣僚を引き揚げせしめ、現内閣と絶縁する結果になるかも知れぬ。

 


 この日の東京朝日新聞に掲載された、鈴木総裁の発言である。
 ところがこの宣言は、みずからを小僧扱いにした――と、鈴木は信じていた――高橋に対する憎しみが昂ずるあまり、つい癇癪を爆発させてしまった結果唐突に生じたものであり、したがって党内調整もろくに成されてはおらず、多くの政友会人士にとっては寝耳に水で、ために政府を苦しめるどころか政友会内に於ける猛烈な反鈴木運動を惹き起こすきっかけにこそなってしまった。


 この後政友会は、あくまでも総裁を守って政府と一戦交えようという強硬派と、いま事を荒立てては逆に政権は逃げてゆく、ここは隠忍自重して、コツコツと実績を積み上げる時と訴える自重派とで、未曾有の対立――早い話が内ゲバの醜に堕ちてゆくのである。


 そのツケは、第十九回衆議院議員総選挙にてむざんなほど顕れた。かつて301議席を有していた政友会は大きく票を減らし、175議席で第二党へと転落。のみならず、なんと総裁の鈴木喜三郎が落選すると言うにわかには信じ難い失態を演じる破目になる。

 

 

Japanese General election, 1936 ja

Wikipediaより、第十九回衆議院議員総選挙結果)

 


 青山に眠る前総裁、犬養毅も、さだめし苦笑しただろう。

 

 


 二・二六事件が勃発し、斎藤実高橋是清が共に命を落とすのは、この総選挙からわずか六日後のことである。

 

 

 

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