穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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高橋ダルマの手のひら返し ―中編―

 

 昭和七年二月二十日に行われた第十八回衆議院議員総選挙にて、政友会は大勝した


 466議席中、301議席を占める快挙。第二党の民政党に倍以上の差をつけて、堂々たる単独過半数を達成したのである。


 実に輝かしい成果であろう。政友会の黄金時代が、これより花開くはずだった。

 

 

Japanese General election, 1932 ja

Wikipediaより、第十八回衆議院議員総選挙結果)

 


 ところが同年五月十五日、知っての通り五・一五事件が勃発。内閣総理大臣にして政友会総裁である犬養毅が凶弾に斃れる事態に至る。
 生じた空白は、可及的速やかに補填されねばならない。まず、事件からわずか二日後の五月十七日夜に、「腕の喜三郎」と通称された鈴木喜三郎が政友会総裁に選出された

 

 

Kisaburo Suzuki 

Wikipediaより、鈴木喜三郎)

 


 憲政の常道からすれば、当然内閣総理大臣の椅子もこの喜三郎が占めるべきであったろう。
 しかし戦前日本に於いて、総理大臣は国民の意思では決まらない。
 元老、西園寺公望の意思で決まる。
 衆議院で第一党を占めていようと、時には無力なものなのだ。


 この時が正にそうだった。大命は鈴木喜三郎の頭上を通過し、あろうことか元海軍大臣斎藤実にこそ下りた。


 この事態を歓迎できる政友会員なぞ一人もいなかったに違いない。
 第一、新総裁の喜三郎にしてからに、自分が総理の椅子に座って内閣を組閣するつもり満々だったのだ。その内閣には余所者の容喙なぞ決して許さず、磐石強固なる単一内閣を築いてみせると息まいていた。

 


 現在の時局に際して政友会を基礎とした強力なる内閣が必要である。強力といってもあながち三百名の与党を有することを以て強力とはいはない。志を同じうするものが同一の傘下に集まればたとひ百四十名でも強力である。(中略)かくの如き内外時局重大なる際こそ広く志を同じうする単独の強力内閣が必要なのだ。政党の連立その他の寄り合ひ世帯は絶対に反対である。

 


 十八日の東京朝日新聞に掲載された鈴木喜三郎自身の発言である。


 ところがいざ西園寺が上京してくると、どうも政友会に対する顔付が面白くない。焦った彼らは「政党外の人物に大命が降下した場合、即ち超然内閣の出現を見るような場合は絶対に入閣を拒絶する」とか「ただし鈴木総裁を西園寺公が招致して挙国一致内閣の交渉をなす場合には、政界四囲の情勢と時局重大に鑑み、条件次第で挙国一致するのも止むを得ない」とか、脅迫したいのか妥協したいのかよくわからない、つまりは鼠色の発言をそこかしこでばら撒き出した。


 政友会のこの態度は、むしろ逆の結果を呼んだろう。西園寺の胸中で、いよいよ政友会にはこの非常時を任せられないとの考えが膨れ上がったことは、容易に想像がつく。


 実際斎藤実に大命降下し、政民両党から適当に入閣を希望する形勢が見えてくると、あれほど「入閣絶対反対」を呼号していた政友会は、


 ――党員個人の入閣は認めるが、総裁自身は入閣しない。


 とまで折れてしまった。


 出来上がった内閣の内訳を眺めてみると、やはり政友会の色が最も強い。大臣に三人、次官に四人、参与官に六人の人員をそれぞれ送り込んでいる。


 この「三人の大臣」の中に、高橋是清三土忠造も含まれていた。


 前者は大蔵大臣として、後者は鉄道大臣として。


 が、如何に色が濃いからといって、そもそも一色・・を念願していた政友会がこのまま黙っているはずがない。
 特に鈴木総裁は油揚げをさらわれたとの実感強く、現状に絶えず不満を抱き、一日も早くあの斎藤内閣とやらがぶっつぶれて憲政の常道に回帰して、すなわち自分の天下が現出するのを待っていた。


 政友会系の人間がかなり早期の段階から、


 ――非常時、既に去れり。


 との観測を発表するのはそれが理由だ。いろいろあったがマアとりあえず塘沽協定も結ばれて、戦争状態も解消されたのだから非常時は脱したと言ってよく、その非常時を乗り切るために例外的に存在を赦されていた斎藤内閣も役目を果たしたとみるべきであり、ここらで潔く解散し、憲政の常道に復するのが物の道理というものじゃあないかね云々と、そのような経路で倒閣を狙ったわけである。


 が、これは期待したほどの効果を挙げなかった。


 だからといって、それでへこたれる彼らではない。政治家の権勢の座に対する執着が如何に根深く、またねちっこいものであるかは、我々は石破茂を見ることで容易に知ることができるだろう。
 彼らは次の手を模索して、やがて見出したのが、高橋是清の辞職願望だったのである。

 

 

Korekiyo Takahashi 5 cropped

 (Wikipediaより、高橋是清

 


 高橋翁は既に老体。健康も相応に悪化して、もはや蔵相という大任のもたらす負担に耐え切れず、内心職を辞するタイミングを常々窺っているということはつとに知られたところであり、それこそ政界人のみならず市井の閑話のネタにさえもなっていた。
 これを倒閣の梃子に使おうと考えたのは、なんと斎藤内閣で文部大臣を務めている鳩山一郎。政友会から入閣した「三人の大臣」、最後の一人であるこの男は、どうやら目下の上司である斎藤よりも元々の親分たる鈴木の機嫌を取り結ぶ方を優先したらしい。

 

 

Mr. Ichiro Hatoyama

Wikipediaより、鳩山一郎

 


 鳩山の構想では高橋翁が辞職すれば、当然大蔵大臣の後継に誰か人を出してくれと斎藤内閣から政友会に打診があるに違いない。

 そこで政友会はそれを頑として拒絶する。

 さすれば元々危ういバランスの上に成り立っているごった煮内閣のことだ、必ずや後任人事は難航し、政務は機能不全に陥り、とうとう済度不能な混乱を来して瓦解するに違いない。――


 鳩山の描いた絵の筋書きは大方こんなものであり、鈴木総裁も乗り気になってついに鈴木―高橋間の会見の席が用意される運びとなった。


 この席で成立したのが、所謂「鈴木高橋の黙契」である。


 高橋の言い分では、とにかく現在、第六十四議会で審議中の予算案、これだけは無事に通したい。これが通過さえすれば、自分は直ちに大蔵大臣の椅子から立ち退く覚悟と用意があると鈴木に対して交渉し、鈴木はこれを受け入れた。


 内閣こそ組閣できていないものの、いぜん衆議院で最大多数を握っているのは政友会に他ならないのだ。その総裁たる鈴木喜三郎の鶴の一声さえあれば、高橋の要求した予算案程度楽々通る。


 果たして鈴木はそのようにした。


 ところが第六十四議会が終わっても、いぜん高橋は大蔵大臣の椅子を離れなかった。
 それどころか「死ぬまで国に御奉公する」と、契約した内容と正反対のことを言い出す始末。
 総理大臣、斎藤実直々の説得により、このダルマはまたもや得意の手のひら返しを炸裂させてのけたのである。

 

 

高橋是清自伝(下) (中公文庫)

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